2012年09月24日

「みずき」と「なかざわ」(vol.238)

 玉川地区の玄関口である中沢集落から、くねくねと天にのびる見月山の尾根筋は、あたかも竜の背中のようです。
 さて、この「見月山」――。みなさんは、何と読まれますか。焼津市在住の私は、お月見をイメージし、「みつきやま」と読んでしまいますが、数年前、地元の方が「みづきやま」と言われたときに、「はっ」としたことを憶えています。
 地名は、その言い方を変えずに、時代時代で、漢字が変っていくことがあります。「見月山」は、昔は「水城山」であったという伝承があります。これは、中河内川と大河内川という天然の濠に守られた城、つまり「水城(みずき)」がこの山にあったということです。
 また、「中沢」の地名の謂われも「水城」と同じで、「中河内川と大河内川のふたつの川(沢)が合流したところの中側にあるから」と、江戸時代に書かれた『修訂駿河国新風土記』に載っています。
  


Posted by 安倍七騎 at 20:57Comments(0)随想

2012年08月18日

作家と俳優による「安倍七騎演義」(vol.237)

本日、8月18日(土)、島田市尾川にある杉山有絵画館にて、安倍七騎演義と題するイベントを行いました。

タイトルの前に、「作家と俳優による―」と付きますが、これはSPAC俳優奥野晃士(おくの・あきひと)さんの朗読に、私が所々に解説を加えるといった企画です。

会場である杉山有絵画館は、故杉山画伯の絵画が展示されているところですが、この杉山家が安倍七騎の一人、杉山小兵衛利春の末裔ということになります。

また、私たち(奥野さんと私)の話の合い間に、杉山画伯のご子息である平さんが、家伝の槍や刀を披露してくれ、また在りし日の杉山画伯のお話をしてくれました。

風光明媚な里山に、雷鳴が重々しく轟くなか、奥野さんの朗々とした声がとっても印象的でした。


杉山有絵画館:島田市尾川304 ℡0547-35-6510 http://www.ne.jp/asahi/sugiyama/yu/

  


Posted by 安倍七騎 at 21:25Comments(0)催事

2012年05月02日

山神考―yamagami-koh― (vol.236)

 vol.232では、奥池ヶ谷城落城伝説を、物語り風に紹介しました。
 城主友任氏の家族は、結果として散り散りに逃げて、みな哀しい最期を遂げたわけですが、友任氏本人は、口仙俣の「広海戸」(「広海道」とも云う)というところで切腹したと伝えられます。その後友任氏は、口仙俣で「山神」として祀られるようになりました。
 ときは同じく戦国時代のことで、玉川地区より川下の津渡野には、津渡野城の落城悲話が残っています。この城のお姫様は、山越えをして清沢村(現葵区坂本)まで落ち延びましたが、やはり自害して、「姫山神」として祀られました(『清沢村誌』)。「山神」などは、岩手県の遠野地方の伝承を記した『遠野物語』(柳田国男著)にも出てきますが、「姫山神」とは、珍しい呼称だと思います。
 いずれにせよ、安倍・藁科川筋界隈では、不幸な最期を遂げた人は、その実力や身分相応に、「山神」「姫山神」となるようです。また、土地の人がそのように呼ぶのには、憤死者に対して哀悼の意を捧げることのほか、その怨霊・災禍を恐れての思いがあるようです(―丁度それは、出雲大社に祀られている神のように―)。
 そう云えば、口仙俣の住人白鳥玄可の放った矢によって斃れた大石五郎右衛門(安倍七騎)も、死後「山神」として祀られたと『玉川村誌』は伝えます。五郎右衛門の死後、その愛刀「備前守正則」が不幸をもたらすといった伝説があるので、これなどは、五郎右衛門の怨霊を恐れて「山神」としたように思えます。


  


Posted by 安倍七騎 at 22:14Comments(0)徒然

2012年03月18日

講演会(vol.235)

去る3月11日、静岡市議会の静友クラブ(代表:白鳥実先生)のお招きで講演(タイトル「郷土の歴史と地域の振興」)を行いました。200名ほどの方がおみえになり、安倍奥や奥藁科の地域振興活動の報告などを中心に、お話をすすめました。

◎ 安倍七騎について
 〇 安倍七騎とは?
…… 里人安倍七騎と云家々、彼の家此の家とて一定ならず、想に安倍の谷の土著の地下人、
永禄、天正の頃武田家に屬し、戰功ありし者を當時安倍七騎と稱せしならん ……
『駿河志料(一)』(駿府淺間新宮前神主 中村高平著 / 文久元(1861)年11月脱稿)


 〇 “七人の侍”は誰だ?
此村(俵峯村)杉山、望月、足窪村の石谷、落合村の狩野、村岡村の末高、柿島村の朝倉、
中野村の海野 …… 上落合の大石、牛妻村の森谷沢に一人(氏姓未詳)……
『駿河国新風土記』(新庄道雄著 / 天保5(1834)年脱稿)
~ ほか、安倍七騎とされる武人たち ~
大村彦六郎(油島村)、村松某(安倍谷)、長倉佐渡守(長熊村)、遠藤伝蔵(遠藤新田村)、
   海野弥兵衛(郷島村)など

 〇 伝説にみる安倍七騎
   ・ 代々アワビを祀る朝倉家(柿島村 / 葵区柿島)


   ・ 謎めいた刻石「元和十三天」~ 大石五郎右衛門のお墓 ~(柿島村支村上落合 / 葵区上落合)


   ・「立ン場」(柿島村支村上落合 / 葵区上落合)と「引落シ」(俵峯村 / 葵区俵峰)の地名の由来


◎ 郷土の歴史は“地域資源”
 〇 郷土史由来の商品をつくる ~ 安倍奥の会 ~


 〇 郷土坂本の歴史を後世に ~ 坂本愛郷の会 ~


 〇 地元玉川小学生による歴史ナビ ~ 玉川地区青少年健全育成会 ~
  


Posted by 安倍七騎 at 20:48Comments(0)

2012年03月03日

歌の力: 森下よしひささんの死を悼んで (vol.234)

先月、森下よしひささんが53歳で亡くなられた。
森下さんは、葵区水落の交差点から日吉町方面へのびるケヤキ通り沿いに、「フォークテラス 海風」という飲食店を構えていた。店名から察せられるとおり、森下さん自身がシンガーソングライターであった。

朝倉氏(安倍七騎、柿島村名主)の菩提寺、曹源寺で行われたイベントでは、鐘楼の台座に腰掛けて、馴染み深いフォークソングを歌ってくれた。

森下さんのアルバム『ただいま』の中に、「虹をつくる場所」という歌がある。これを聴くたびに、

―ああ、森下さんは、

♪ 地平線の向こう側に いつかあると聞いた 世界中に笑顔運ぶ 虹をつくる場所を 今目指して‥

旅立たれたんだ―と思う。

ここ一週間ほど(―ほとんど「終始」といっていいくらい―)私の頭のなかを、この歌がめぐっている。これは、“歌のみが持ちうる力”であると思う。終始、森下さんの軽やかで、かつ力強いの歌声が、私の頭の中をめぐっているのだから。

そういえば、私が車中でこのCDばかり聴いくので、妻もいつの間にか、前出の部分を口ずさむ。
妻にとっても、大好きな歌のひとつとなったようだ。

森下さん、素敵な歌をありがとう!!
そして、さようなら…。



  


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2012年02月26日

子どもに見せたくない番組(vol.233)

「子どもに見せたくない番組―― 国会中継」

と、新聞の「読者の広場」にあった。
これには共感するものがある。
討議というよりも、“悪口”“貶(けなし)しあい”にとれるから、ということだ。

和(話)を以って尊しとなす

わが国の立法の祖、聖徳太子の言葉を、忘れてはならない!!  


Posted by 安倍七騎 at 20:32Comments(0)

2012年02月18日

小説 友任哀史 ―ともどう・あいし―  (vol.232)

  
 ときは永禄年間――。
 ひっそりと寝静まりかえった安倍奥玉川の奥池ヶ谷城界隈は、摺墨(するすみ)を押し流したかのような闇夜であった。この戦国の山城の脇をはしる安倍街道は、北辺の甲斐の虎、武田信玄入道に不穏な動きあらば、駿府の今川氏真邸に早馬を飛ばす軍用道路である。
 その道を粛々とおし進み、城の大手口を取り囲む一団があった。馬口に食ませた枚(ばい)を解いたか、その嘶きと共に城門を打ち破る槌音が鳴り渡る――。
 すわ、ふいを衝かれた城主友任は、寝所の戸板を蹴破って庭に立つと、家来どもを城の要所要所へと差配し、自らも弓をつがえて、修羅の鬼と化した。しかし、箙(えびら)に束ねた矢数を上回る敵勢である。やがて矢が尽き剣も折れると、妻子、家来をうち連れて城裏手口から脱した。が、友任一行のその先を清流中河内の流れが阻んでいる。ときを待たず追手が迫るは必定であった。友任は我が命には諦めがつくが、不憫に思うは妻の胸に抱かれた赤子であった。一計を案じた友任は、妻に中河内川の浅瀬を指し示してこれを渡らせると、残兵(ざんぺい)に鬨(とき)の声を上げさせて、嫡子(ちゃくし)とともに川上へと遁(はし)った。
 その後、友任は川上の仙俣村で切腹。嫡子はその手前の栗駒で敵の刃にかかった。
 爾来、嫡子討ち死にの栗駒の森を“御曹司の森”と云い、父の願い叶わず水没した赤子の淵を“赤子淵”と呼ぶ。
           ―― 了 ――

  


Posted by 安倍七騎 at 22:21Comments(0)徒然

2012年01月21日

浪人坂のお話など(vol.231)

今日は藤枝市は野田沢(のたんざわ・旧志太郡岡部町)にある増田辨之助(昭和3年生まれ:ますだ・べんのすけ)さんのお宅を訪ねた。増田さんは、『安倍七騎』初版発行後すぐに拙宅に電話をくれ、本を買い求めてくれた方。だから、5~6年前からのお付き合いになる。

午後3時、小雨にけむるなか、野田沢に架かる赤い小橋をこえ、増田さん宅を訪れた。
玄関引き戸を開けるとそこは土間、土間の左手が客間、客間の右が居間といった日本古来の佇まいの住宅である。

増田さん宅でのお話―。
・この岡部の殿(との:拙著『安倍七騎』に登場する朝比奈氏の菩提寺があるところ)と静岡の飯間(はんま:藁科川沿いにあった小瀬戸城の兵を養うために“ご飯”をつくったところ)を結ぶ野田沢の道の歴史は古い。徳川家康が駿府城入城にあたり、通ったとされる道でもある。

・この道沿いに「義経のかくれ石」があったが、道の拡張整備にあたり、方丈さんによるお祓いののち、土中に埋められた。

・その昔、ひとりの浪人かこの道を行くと、侍ふたりと決闘となり―ふたりに前後をはさまれたのち―斬られた。その“ローニンさん”を村人が介抱したとき、おのれの死を悟った“ローニンさん”は「ここで(―斬られた場所で―)何事があっても怪我はさせない」と言い、しばらくののち死んだという。その言葉のとおり、そこの坂「浪人坂」では怪我がでないといわれている。増田さんの弟さんも、ここで若いドライバーが運転する乗用車と衝突したが、無事に済んだという。

かれこれ小一時間、こんな話に花が咲いた。



赤い小橋のたもとに実った真っ赤な南天の実



増田さんのお宅



並んだ養蜂箱の右手(野田沢の下流側)に「義経のかくれ石」が埋まっている



ローニンさんのお墓。今も村人による香華が絶えない



お墓に刻まれた文字(90度回転で見てください)  


Posted by 安倍七騎 at 20:03Comments(0)徒然

2012年01月15日

お食い初め(vol.230)

生まれて100日目にお食い初めという儀式が行われる。これは、その子が一生食べるのに困らないようにという、親の願いをこめたもの。

さて、前号にでてきた義叔父から聞いた話―。
私のお食い初めには、大崩海岸の黒鯛が用いられた。これは、祖母にお食い初め用に釣ってきてと頼まれたものだそうで、だから「克典は魚釣りが好きになったんだ」と祖母や義叔父に言われたものだ。

釣好きとなっため、少年時代に義叔父に安倍川へ鮎釣りに連れて行ってもらい、安倍七騎を知ったということになる。であるから、私がお食い初めで黒鯛を食さなければ、小説『安倍七騎』は生まれなかったということか。

今日、娘のお食い初めを行った。
それに用いたのは、女の子らしく(?!)赤い鯛とした。


映画『武士の家計簿』のセリフ 「鯛じゃ、鯛じゃ‥」
同映画では、家計が苦しく鯛が買えなかったため、紙に鯛の絵を描いて上のセリフを連呼していた。
―当時、これだけの鯛を調達できたのであれば、娘はお姫様並みだよね。―と妻との会話。


記念にとったのは―、


娘の足がた

  


Posted by 安倍七騎 at 21:45Comments(0)

2012年01月14日

続きのお話(vol.229)

昨日アップしたvol.228の続きです。

昨日、玉機橋の話をしましたが、最近開通した、足久保と油山をつなぐ県道29号線の筋もあったそうです。油山にある駿河変電所の南側に(油山川をへだてたあたりに)小山がありますが、その山道があり、その道幅は1メートルにもみたないものだったそうです。だから、義叔父が自転車でそこを通る折、反対側から人や自転車が来ると、やり過ごすのに大変苦労したそうです。

さて、その頃の玉川は桂山界隈の話―。
見月山の桂山側の山ろくには、当時、サナトリウム(結核の療養所)があったそうです。当時、結核は映画『絶唱』(私の小学生の頃は、山口百恵さん、三浦友和さん)に見るように、死の病で、桂山では、そのサナトリウムを「死病院」と呼んでいました。

そのサナトリウムの患者さんの洗濯物は中河内川でジャブジャブと洗われていました。
当時の衛生意識はお粗末で、患者の洗濯物を洗う1メートル下流で水浴びをするといった具合だったので(―なぜならば、当時の村人の考えだと「三尺も流れれば、汚れ・菌はなくなる」といったものでした―)、それによる感染者もいたようでした。

さて、その後の義叔父一家の話―。
義叔父とその父は、天王町のバラックにすんでいましたが、家族全員で、も少しマシな家に住もうと、家を建てることになりました。その建材は、桂山の材木で、上助の対岸の山の木でした(当時、其の近くには、火葬場があったそうです)。

木を切り出す作業を切り盛りした人は義三郎さんと云う人で、みなに“ギサ兄ィ”よばれていたそうです。
当時、川筋の木材は、トラックなどでは運び出しません。桂山の木材は、中河内川の流れにのせて、川を下ってゆくのでした。筏を組んで流された木材は、今の水道町の辺りで引き揚げられます(まさに、“みずみち”の終点ですね)。

やがて、念願叶って天王町に家を建てたのですが、それでも壁は空襲で焼け焦げたブリキの波板で、隙間風が吹き込む家だったそうです。

  


Posted by 安倍七騎 at 23:17Comments(0)

2012年01月13日

遅れ馳せながら―、(vol.228)

目下3ヶ月になる娘の世話で、ブログも疎かな状態です。
遅れ馳せながら、皆さま、明けましておめでとうございます。

昨年は世間的にみると、震災一色の感で一年が終えました。
今年は安らぎの年でありますよう、心から祈ります。

さて、正月2日には、静岡の義叔父(東京大森、昭和5年生まれ)が遊びに来、昭和20年の終戦日のころの
話をしてくれました。
当時、義叔父自身は、彼の父と静岡の天王町に住んでいて、彼の母と妹が、玉川は上助にあった三軒長屋に疎開していたそうです。そのころの静岡市街は空襲で焼け野原だったそうです。だから、天王町の家も掘っ立て小屋だったそうです。
終戦のその日、義叔父は天王町の自宅から自転車(自転車といっても、タイヤがゴムホースのようなもので、すぐにホイールから外れた)で玉川に向かいました。当時、牛妻の玉機橋は、大雨によって一部が破壊され(木造だった)、渡るのに苦労したそうです。
なんとか、油山側に渡り、松野あたりまできたころ、大勢の大人たちが外で話をしていました。
「おじさん、どうしたの?」と訊くと、
「日本が戦争に負けたんだって」
「そうか、負けたのか‥」
「何処へ行くんだ?」
「おふくろさんと妹が玉川の星野さんところへ疎開しているから、これから行くんだよ」
「そうか、けどもう戦争は終わったから、もう行かなくてもいいんだよ」
なんて、会話があったそうです。

  


Posted by 安倍七騎 at 21:54Comments(0)

2011年12月01日

寒くなりましたですな(vol.227)

12月の声を聞き、寒さがグンと迫ってきました。
そんなときは、やっぱりコレですな。



家業だった焼津港運送のトラックドライバー佐々木さんからの贈り物。
佐々木さんとは、40年来のお付き合い。

氷雨が降る今夜は、水しぶきをあげて走り去る車の音を聞きながら、ぽつりぽつりと飲(や)っています。

  


Posted by 安倍七騎 at 22:41Comments(0)徒然

2011年11月28日

橋本新大阪市長のいう“独裁者”(vol.226)

昨夜、橋本大阪新市長が誕生した。
橋本氏は、大阪府知事時代に「今こそ独裁者が必要だ」ということを壇上で発言し、眉を顰める人もあった。

戦国時代、今川義元公のころになると、今川氏は重臣との協議によって駿河国の方針などを決めた。
その点、隣国の支配者織田信長公ひとりの英断によって、義元公を桶狭間で破った。

混沌とした現代、橋本氏のいう“独裁者”を時代が求めているのかもしれない。

ただし、これもバランスの問題。かつてのルーマニア国と、それを統治した独裁者チャウシェスク(―名大統領で名をはせた時期もあった―)の顛末を忘れてはいけない。

  


Posted by 安倍七騎 at 22:01Comments(0)徒然

2011年11月27日

福島県の四倉ふれあい市民会議さん来静(vol.225)

昨夜、しずおか食の未来実現会議(代表 上川陽子氏)さんが、四倉ふれあい市民会議(代表 佐藤雄二氏)の会員14名の方を呼び、交流会が開催されました。

四倉ふれあい市民会議は、被災地四倉地区(いわき市)の将来像の策定・復興を目的に設立されました。

当日、四倉からやって来られたご一行は、静岡産業フェアを視察後、交流会に参加しました。

交流会では、フェア出展のシラスを見て「いわきでもシラスが揚がるんだが、売ることが出来ないんだよ」という胸のうちが明かされ、また、「福島の紅葉は素晴らしいのだが、静岡を訪れて、今年はじめて紅葉を目にしました」など、現地の実情などを伺い知ることができました。

被災地への支援は、まだまだ不足しているようです。席上、上川陽子代表が言われたように、「狭い日本国内での支え合い」「親戚以上のつきあい」が必要だと思いました。

福島ファンクラブ会員(―数年前にインターネットにて登録―)でもある私は、これからも福島を応援してゆきます。




  


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2011年11月21日

なかなかのハードパンチャー(vol.224)



娘のことです。
夜中に、ハートのグローブから繰り出すアッパーを2発、あごに喰らいました。
それでも父はダウンを許されず、朝まで添い寝を続けました。



ちなみにこれは、父愛用のメキシコ製グローブ「カサノバ」。

  


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2011年11月19日

玉川の城山橋(vol.223)

玉川の長妻田と柿島の境に「城山橋」という小さな橋がある。
この橋の近くには、辺り一帯を支配していた朝倉氏の館があった。

戦国時代、大名クラスでは武田氏、今川氏がそうであったように、柿島の朝倉氏も普段は館で過ごし、有事の際には、裏手の山に築いた城に篭もったようだ。



  


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2011年11月18日

平野雅彦先生の手帳のおはなし(vol.222)

紺屋町地下街にある伊太利亭で、平野雅彦先生(静岡大学、東海短期大学講師)による「平野流 手帳のはなし、情報管理のはなし」講座が行われました。

先生の「手帳遍歴」「スケジュール情報管理」「スケジュール帳・手帳・ノートの遊び方、使い方」といった項目で、講座は進められました。

自分にとってベストな情報管理は何か――必ずしも万人にとってやり易いというものはない。自分はこれが一番と思っていても、人によってはそれが苦痛な場合もあるのだ、といった前提がありながらも、心理学にもかなった先生の仕方は、とってもユニークなものでした。



先生の講座の楽しみのひとつはそのレジュメ。
さらっと書いた“手作りレジュメ”なのである。  


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2011年11月09日

柿島の地蔵堂(vol.221)



その昔、安倍街道をゆく木枯しの紋次郎が、このお堂で一夜を明かしたのかもしれません。



上州新田郡(にったごおり)三日月村の
貧しい農家に生まれたという
十歳の時に故郷を捨て
その後、一家は離散したと
伝えられる
天涯孤独な紋次郎が
なぜ無宿渡世の世界に入ったかは
定かではない  


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2011年11月08日

今日は立冬(vol.220)



画像は、玉川小学校グランドから見た月です。
白鬚神社(―画像右側の山上が社殿―)の木立を縫って、団々と昇ってゆきます。
また一見、お月さんがお宮参りをしているようにも見えませんか?

一昨日、玉川小学校グランドを発着点とした、第1回玉川トレイルレースが行われました。
そして、昨日、静岡第一テレビ放送の「エブリィ静岡」(18:15~)でこの様子が放送されましたが、番組中、玉川地区地域支援員の服部俊介さんが、「玉川には山しかない。そこで、トレイルレースをしようと思い立った」と言われました。

整備されたトレイルレースのコースは、これから毎年行われる同大会のコースとして利用されますが、普段は、トレッキングコースとして利用されます。
このトレッキングコースは、玉川地区へ人を呼ぶ「玉川の名物」となるでしょう。

今日は、立冬―。
これからは、夜空が澄みわたる“天体の季節”でもあります。
冒頭の月を撮影したとき、「ここから望む月、これは玉川の名物だ」と思いました(―玉川には、見月山という山もあるくらいですから―)。

車中、アンドレ・ギャニオンの『夕暮れから』を聴きながら、みなさんも月夜の玉川を訪れてみてはいかがでしょう。
  


Posted by 安倍七騎 at 00:27Comments(0)徒然

2011年11月01日

ご飯に添えた生姜の漬物(vol.219)

 

私の晩ごはん、ワンプレートに盛ったのは、卯の花、小樽で手に入れた冷酒グラスには地酒の杉錦…。
銀シャリに添えた漬物は、生姜の甘煮に生姜の梅酢漬け。

生姜2品は、玉川地区内匠の和田さん(眞明・なおみ夫妻)からの頂き物です。
この生姜は私の元気の源です。
朝ご飯に生姜を添えて食べると、元気が百倍!!
特にこれからの季節には欠かせません。
和田さんは、週末に葵区牛妻の「安倍ごころ」の軒先に出店します。
漬物などの食品のほか、布ぞうりや、シャレたミサンガなども扱います。  


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