2012年01月14日

続きのお話(vol.229)

昨日アップしたvol.228の続きです。

昨日、玉機橋の話をしましたが、最近開通した、足久保と油山をつなぐ県道29号線の筋もあったそうです。油山にある駿河変電所の南側に(油山川をへだてたあたりに)小山がありますが、その山道があり、その道幅は1メートルにもみたないものだったそうです。だから、義叔父が自転車でそこを通る折、反対側から人や自転車が来ると、やり過ごすのに大変苦労したそうです。

さて、その頃の玉川は桂山界隈の話―。
見月山の桂山側の山ろくには、当時、サナトリウム(結核の療養所)があったそうです。当時、結核は映画『絶唱』(私の小学生の頃は、山口百恵さん、三浦友和さん)に見るように、死の病で、桂山では、そのサナトリウムを「死病院」と呼んでいました。

そのサナトリウムの患者さんの洗濯物は中河内川でジャブジャブと洗われていました。
当時の衛生意識はお粗末で、患者の洗濯物を洗う1メートル下流で水浴びをするといった具合だったので(―なぜならば、当時の村人の考えだと「三尺も流れれば、汚れ・菌はなくなる」といったものでした―)、それによる感染者もいたようでした。

さて、その後の義叔父一家の話―。
義叔父とその父は、天王町のバラックにすんでいましたが、家族全員で、も少しマシな家に住もうと、家を建てることになりました。その建材は、桂山の材木で、上助の対岸の山の木でした(当時、其の近くには、火葬場があったそうです)。

木を切り出す作業を切り盛りした人は義三郎さんと云う人で、みなに“ギサ兄ィ”よばれていたそうです。
当時、川筋の木材は、トラックなどでは運び出しません。桂山の木材は、中河内川の流れにのせて、川を下ってゆくのでした。筏を組んで流された木材は、今の水道町の辺りで引き揚げられます(まさに、“みずみち”の終点ですね)。

やがて、念願叶って天王町に家を建てたのですが、それでも壁は空襲で焼け焦げたブリキの波板で、隙間風が吹き込む家だったそうです。




Posted by 安倍七騎 at 23:17│Comments(0)
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