2008年08月27日

「わさびの駅」にみる中山間地振興(vol.64)

西伊豆町大沢里(おおそうり)に「わさびの駅」のというお店があります。このお店の売りは、地下千メートルから湧水する水(正確には、地下24メートルのところまで湧水し、地上までの24メートルはポンプでくみ上げている。商品名「天城深層水」)の販売です。

このお水は、水道水や(多くの)市販のミネラルウォーターとは異なり、硝酸体窒素という農薬の残留物質や乳幼児の死亡原因となるメトヘモグロビン血症を誘発する物質)が含まれていないということで、他の水と差別化ができている商品です。

休日ともなると、朝5時から取水に来るお客さんが開栓を待っていたり、なかにはトラックでくる人、他県からポリタンクを十数個もってこられるお客さんもいます。

この「わさびの駅」ではお水のほかに、「天城深層水」をつかったお味噌やお豆腐、純米酒などが販売されており、また、おそばやうどん、ラーメンなどが食べられます(もちろんスープは「天城深層水」でつくっています)。

じつは山間部にあるこのお店、ちょっとした中山間地の地域振興にも役立っています。
というのも、近くの畑でとれた人参やにんにく、ゴーヤなどの野菜のほか、香花や榊などの花き、それから、炭などの地場産品が売られています。ですので、地場産品の正札には「金一さん」「房江さん」などの生産者の名前が記されています。これがまたいい――。

この「わさびの駅」に、先週末から昨日まで行ってきたのですが、雨の日など農作業ができない日には、生産者の方が「わさびの駅」にやって来られ、水汲みに来られた方と雑談を交わします。そうすると、「わさびの駅」の東屋は、ちょっとしたサロンになります。

最近の新聞記事によると、静岡市では「中山間地域総合計画」の策定に着手しとのことですが、安倍奥でもこういったお店や施設があれば、地域振興(農業の振興、若者の雇用、集落と市街地の人との交流など)の基地となるのではと思いました。

安倍奥は、とくに中河内川筋が、西河内地区(観光地井川へ抜ける道がはしる)や大河内地区(観光地梅ヶ島へいける)に比べて、過疎化の観があります。

ですので、中河内地区に「わさびの駅」のような施設があればよかろうと思うわけであります。

「安倍街道」という街道があります。この「安倍街道」は、県庁前の「御幸町通り」から梅ヶ島までゆく安倍川本流筋の道だと思われがちですが、じつは中河内川筋をはしる道が「安倍街道」で、昔は中河内川筋がメインでした。


   ↓  画像をクリックすると、拡大されます。



 「わさびの駅」取水の様子。東屋の先に水を汲む人がいます(「わさびの駅」:住所:西伊豆町大沢里628-1 電話番号:0558-58-7315)。



 中河内川沿いをはしる県道27号線(通称「安倍街道」)。画像の場所は大石五郎右衛門がいた上落合の集落です。




  


Posted by 安倍七騎 at 23:46Comments(0)徒然

2008年08月21日

安倍奥の樵 清水さんを囲んで(vol.63)

8月18日(月)、伊太利亭にて、安倍奥で樵(きこり)をされている清水光弘さんのお話を聞く会がありました。

清水さんは、林業に携わっているのですが、自閉症や発達障害の子供などを森へといざない、自然に触れてもらう教室を開いています。

清水さんは、「森ってすごいな」ということを何度かいわれました。
それは、「森は考える時間を与えてくれるからだよ」といわれました。なにか悩んでいるときに森にはいると、自分を冷静にみつめさせてくれるというのです。

『安倍七騎』の取材では、ときに安倍山(やべやま)の道なき道をゆき、森が醸しだす空気につつまれることがままありました。そうすると、おのずと肩の力が抜け、今まで下界にいた自分とは違っていることに気付きます。

「森でのセラピー」も「考える場所である森」も、「森羅万象の一部である自分自身を取り戻せる場だからなんだな――」ということが、ベースにあるように思いました。

ほか、こんなお話をしてくださいました。

・山には、男山女山がある。男山は、険しく入りづらいが入るにつれて楽になる。女山は、入りやすく懐が深くて穏かで居やすいけれども突然豹変する。女山は恐い。
・安倍奥の山、十枚山真富士山(アルカリ玄武岩でできている)はおばあちゃん山。とげとげした若い女山とちがってやさしい山。  
・つたの細道や小夜の中山は落ち着かない。特に障害をもった子供たちはそれを感じとる(彼ら、彼女らの感性や五感はすごい!!)。昔、山賊によって旅人が殺されたなど、忌まわしい事件が起きたから!? 
・梅ヶ島に90歳を過ぎた樵がふたりいる。ふたりは昔ながらのやり方やペースで木を伐る。それに対して若者は、機械のペースで働くけれども、一日における両者の仕事量はかわらない。

 など・・・。

このほか、「困ったときに山(森)へゆけ、山(森)が困ったら助けてやれ」とか、「自分が素直になって前向きに考えること」いった言葉も印象に残るものでした。


   ↓ 画像をクリックすると画面が拡張します。



 「きこりのしみあんを囲む会」の様子。
 手振りをまじえてお話をすすめる清水さん。




  * * * 追   記 * * *

22日(金)から27日(水)まで、西伊豆「わさびの駅」へいってきます。
ここも素敵なところですので、ふらっとお出かけくださいませ(ブログvol.62の余画像を参照)。
  


Posted by 安倍七騎 at 16:56Comments(0)徒然

2008年08月18日

西伊豆の奇岩群を見て(vol.62)

しばらく、西伊豆町へ行ってきました。“八月のお盆休み=観光”の感がありますが仕事です。

その仕事とは、西伊豆町大沢里に、地下1000メートルから湧出するミネラルウォーターがあり、それを売りにする「わさびの駅」という会社の仕事です。朝5時半に出社という、夜型人間の私にとって辛いこともありましたが、夕方の勤務はわりとゆるく、五時ごろには釣竿をもって海に行ける日もありました。

私が向かった釣り場は、仁科浜漁港といいますが、画像のとおりの、実に風光明媚なところです。そこは、沖に離れ小島あり、また岩山が急激に落ち込む海岸線ありのところです。

拙著『安倍七騎』では、北条水軍についてもとりあげましたが、西伊豆の沿岸は 富永氏山本氏高橋氏など、北条水軍の主力部隊がいたところです。

彼らは、度々に駿河湾を渡り、今川や武田の軍港を侵しました。しかし、逆に攻入られるといったことはめったになかったようです。

『伊豆水軍』(永岡治著/静岡新聞社)によると、今川や武田方は西伊豆海岸の軍港を攻め入るにも、それが容易にできなかった理由として、西伊豆の地理的なところによることが大きかったと記してあります。

つまり、山麓が波にあらわれるような山の頂からは来敵の様子が手に取るようにわかったこと、たとえ敵の軍船が港に入ってきても山上から落石の攻撃ができたこと、入り組む海岸の為に軍船を隠して敵の不意をつくことができたことなどを挙げています。

仁科浜漁港を取り囲む奇岩群を見つつ、「なるほどなぁ、これでは攻め手は打つ手がないか」などと思っていると、針先のえさを、幾度となく小魚にもっていかれました。


    ↓ 画像をクリックしてくださいネ!



 仁科浜漁港沖にある離れ小島(竜宮島)



 仁科浜漁港近くの海岸(下田方面側)



 仁科浜漁港近くの海岸(堂ヶ島方面側)



 こんな魚が釣れました。
 ベラですかなぁ・・・。



 大浜海岸から望む亀甲岩


―― 余話ならぬ“余画像” ――



 「わさびの駅」全景



 「わさびの駅」の取水場の様子。取水に4時半から待つ人も。


  


Posted by 安倍七騎 at 00:52Comments(0)徒然

2008年08月11日

大石五郎右衛門大施餓鬼会(vol.61)

8月10日(日)、戦国時代、安倍七騎のひとりとして活躍した大石五郎右衛門の大施餓鬼会が、葵区上落合で行われました。今回は、その様子を画像で紹介します。

  ↓ 画像をクリックしてください。



 大施餓鬼会の会場となる上落合公民館



 公民館の隣(現在茶畑)が五郎右衛門最期の地「立ン場」
 「立ン場」のいわれについては、当ホームページ「地名に残る安倍七騎」を参照。



 大施餓鬼会の様子。
 長妻田の曹源寺のご住職がお経を唱える。
 読経ののち、ご住職は、私が『安倍七騎』の著者であるとみなさんに紹介してくれ、
 『安倍七騎』を読んで郷土の歴史に触れてほしいと言ってくれました。



 大施餓鬼会の様子。
 祭壇の四隅に竹を配置し、前後の竹同士をひもで結ぶ。
 竹には、白いお札が結ってあり、それには、東西南北を守る四天王の名が記されている。



 焼香をする上落合集落の人々。焼香にはお米、刻んだ茄子が使われる。



 お米に竹の剣を突き刺し、それを色とりどりの旗(紙製)を飾る。
 大石五郎右衛門や無縁仏の諸霊がお米を食べに来、やがて剣先から昇天して成仏するという。



 大施餓鬼会で使われたお札。



 お札を結った竹を畑に挿すと、作物に虫がつかない。

大施餓鬼会に参加して――感想――
法要には、15名ほどの上落合集落の方が参加しました。
初対面にもかかわらず、私が公民館に入ると、スリッパを出してくれる人、折り畳み椅子を出してくれる人などと、おもてなしの気持ちをいっぱい感じました。ある書籍によると、上落合から前科者が出たことがなく、これがこの集落の自慢のひとつになっているそうですが、みなさんの振る舞いなどからもそれが頷ける気ようながしました。
さて、参集のみなさん、どなたも一見60歳以上の方たちばかりでした。ふと、400年以上も続くこの伝統行事は、この先何年つづくのだろうかと不安になりました。

これは、7月26日、静岡新聞の記事の見出し――

   中山間地定住促進へ 静岡市 職員から意見募集 

そして、8月7日の記事の見出し――

   中山間地域総合計画策定へ 静岡市 限界集落の実情聞き取り 「生活やっと、人手不足」 

「 」内の言は、葵区玉川地区の口仙俣集落(上落合のとなり)の人の言葉です。

この大施餓鬼会に参加して、中山間地域の過疎化と高齢化を肌で感じました。
過疎化高齢化――。このふたつの問題は待ったなしです。今動きださねば、中山間地に息づく伝統や文化が消えてしまうことは確かです。

さて、大石五郎右衛門のことについて、拙著『安倍七騎』にそって触れます。
柿島村名主朝倉在重は、柿島村の支村、上落合村に住む大石五郎右衛門を常々快く思っていませんでした。というのも、五郎右衛門は、圧政を布く朝倉在重に反発し、村人を助ける側にたった人物でした。
そのころ、甲斐の武田氏が駿河に勢力を伸ばしてきます。大石は6人の同士とともに武田に与し、安倍七騎としてその名を轟かせます。朝倉氏は、大石五郎右衛門に介入策を施したのでしょう。在重は妹を五郎右衛門に嫁がせます。それによって、武田領柿島村を治める朝倉氏の勢力をより盤石なものにしていきました。
やがて、武田氏の勢力が衰え、駿河に徳川氏の力が及んできます。義弟が武田の勇士であってはまずいと考えた在重は、弓の名人である白鳥玄角に命じて五郎右衛門を殺してしまいます。
この事件があってから、柿島村では農作物の発育がよくなくなったり、疫病がはやるなどの災難がつづきました。これを、五郎右衛門の祟りだと朝倉氏をはじめ柿島村の村人は思うようになります。
以降、上落合では、毎年8月7日に大石五郎右衛門の大施餓鬼会を行うようになりました(最近では8月7日前後の日曜日に行われます)。



  


Posted by 安倍七騎 at 23:49催事

2008年08月06日

安倍七騎の夏休み――其の弐――(vol.60)

上落合で、魚釣り、大石五郎右衛門のお墓参りを終えたあと、私達は中河内川の流れに沿って車を進めました。県道27号線(井川湖御幸線、通称:「安倍街道」)を南下してゆきます。

油野(☆「ゆの」あるいは「ゆんの」)、栗駒を経て、長妻田までやってきました。ここは、安倍七騎の時代、この界隈をおさめていた朝倉氏の屋敷のあったところです。朝倉氏は、昭和11年にこの地を離れましたが(一族は、駿河区稲川と、藤枝市に在)、朝倉氏代々のご先祖さまは長妻田の曹源寺に祀られております。

この曹源寺さんは、今年で開創500年を迎えられました。安倍奥の歴史をすっと見続けてきた、由緒あるお寺です。このお寺にまつわる不思議なお話がありますので、それをご紹介しましょう。

―― その昔、曹源寺の山門改修に併せて仁王さん我王さんを安置したころのこと。夜な夜な山門が大きく揺れるほどの大きな泣き声が聞こえたそうな。これに村人は気味悪がって誰も近づかなかった。が、ある晩、お寺の小坊主さんが山門をそっと覗いてみると、「井川へ帰りたい、井川へ帰りたい」と、仁王さん、我王さんが北(井川の方面)に向かって泣き叫んでいたそうな。両手を振り上げ、両足を踏ん張って、大粒の涙をながしながら――。実はこの仁王さんと我王さんは井川生まれで、ふるさとを恋しがって泣き叫んでいたそうな。毎晩の大泣きに困った村人たちは、井川竜泉院の方丈様に供養してもらったところ、以降この真夜中の騒動は治まったそうな。――


  ↓ 画像をクリックしてください。





 力強くも愛嬌のあるお姿の仁王さんと我王さん。挿話は大正7年のできごと。

曹源寺の奥様から冷たいお茶などをふるまっていただき、広々とした本堂でしばし一服。自然の馨に包まれていると、山や谷に沿って心地よい風が吹いてきます。遊びつかれた私たちにとって、ここは楽園――いや、楽土といった方がいいかな――となりました。



 冷たいお茶のほか、甘くて美味しい揚げ饅頭は、私たち七人に滋養をもたらしました。

曹源寺で疲れを取りのぞいた私たちは、中河内川(玉川)筋を離れ、安倍川本流筋へと入ります。次は昼食をとるために「真富士の里」(葵区平野)へと向かいました。がしかし、ここへ到着したころは大雨――。食事をとりながらしばし“雨宿り兼作戦会議”となりました。会議の結果、止むを得ずいくつかの予定を端折ることになりましたが、この雨もそう悪いことではなかったように思います。小一時間ほど皆で卓を囲んでいると、やがて、霧が行き来する見月山(1046.9m)が私たちの目の前にあらわれました。

私がよく「真富士の里」へ立ち寄るのは、この見月山が良く見えるからで、黒澤明監督の映画『乱』の冒頭シーン――騎馬武者が数騎、緑豊かな山並みの尾根筋に居並んでいるといったもの――と重ね見ることができるからです。が、この日の見月山は、濃淡を効かせた墨で描いた、壮大な画をみるような風情のものでした。



 突然降りだした大粒の雨。



 雨上がりにたちのぼる霧は、龍のようにも見えました。

さて、その後、私たちは俵峰の望月庄太郎さん宅を訪ねました(俵峰の望月氏は、安倍七騎のひとり)。望月さん宅の玄関で挨拶をすると、「さあ、家のなかへ」と招いてくれました。私たちは、突然の訪問でもあり玄関先で辞すこととしました。

雨天で行程の変更が生じましたが、“まずは現地へ”という私たちの目的は達成できたと思いました。以上、「安倍七騎の夏休み」と題して7月27日の行程を、vol.59とvol.60で紹介してきました。けどこれをただの休日の1コマで終わらせるわけにはいきません。この1コマはあくまでもフィールドワーク。第一歩です。私たちのささやかなアクションが積み重なってゆき、やがてなにか実を結べば――たとえば、静岡市がおし進めている「中山間地域総合振興」など――と思っています。

前号でも触れましたが、安倍奥は“屋根のない博物館”なのです。

☆ 「油野」には、油野温泉があります。これは「湯」が「油」に変化したもので、「油山温泉」「油島」の「油」も、もとは「湯」を用いていました。これらはいずれも――玉川を含めた――安倍川本流筋の地名です。
藁科川筋には「湯島」という地名があります。江戸時代に書かれた地誌によると、「藁科川筋に湯島という地名があるので、安倍川本流筋の方を湯島とはせずに油島とした」とあります。私は、安倍川本流筋の方が折れて「油」を用いたということに、静岡人の気質を思わせるような面白みを感じます。
  


Posted by 安倍七騎 at 12:01Comments(0)徒然

2008年08月01日

安倍七騎の夏休み――其の壱――(vol.59)

7月9日(水)の夜10時半、場所は葵区にある伊太利亭――。
「では、27日の日曜日に集合!!」ということで一同解散となりました。

そして、27日の早朝に集合した面々は、各車に分乗し、御幸町通りを北西へと進みました。御幸町通りは安倍町を過ぎたあたりで、安倍街道とその名を変えます。

安倍街道は、安倍川本流筋にある俵沢を過ぎると、玉川筋の桂山を抜けて、さらに落合(――西河内川と中河内川が“落ち合う”ところ――)で、中河内川筋へと導きます。このまま、森腰、長熊を通過し、目指す上落合(――仙俣川と中河内川が“落ち合う”ところで、下流に「落合」にあるから「上落合」――)へ。


  ↓ 画像をクリックしてくださいネ!



 みんな、“安倍七騎の夏休み”を満喫しようと集まりました。


「さあ、着いたよ!」と、私は後続車両に向かってハザードランプを点滅。左手には、清らかな中河内川が流れています。

7月9日の“会議”では、魚釣りもこの日の予定に組み込まれていました。みな、ここぞと思しきポイントで糸を垂れます。対岸の沢水が流れ込む淵のあたり、ポタポタと岩清水が水面を叩くところ、大物が居そうな水底に沈んだ大石の付近などなど――。





 本日のポイント。さて、お魚いるかなぁ……。


蝉しぐれに鶯の鳴き声、そして、それらに涼やかな清流の川音が和しています。釣れても釣れなくても、大自然に抱かれつつ、ぷかぷかふわふわと流れる浮子(うき)を眺めるだけで満足します。



 みんな、子供に返っちゃって……。



 だれ? 川でジーパンを濡らしたの



 安倍奥の小宇宙は、いい笑顔にさせてくれます。



 「暑いなぁ、もう行くかァ」
 「いや、もうちょっと……」



 「あのう、次予定があるんですけど……」
 「……、」


午前10時、じりじりと照りつける太陽が気になりだしたので納竿。釣果は、朱斑点とパーマーク(小判型の青緑の模様)が鮮やかな天子(あまご)が2匹と、愛嬌いっぱいの鯊(はぜ)2匹。いずれも可愛い赤ちゃん魚で、「またね!」とリリース。「魚取り」ならぬ、「魚撮り」(釣った魚をカメラにおさめる)はこれにて終了。



 見づらいですが、本日の釣果。
 天子の綺麗な朱斑点、パーマークをご覧になりたい方は、平野雅彦先生のブログ(http://www.hirano-masahiko.com/のうち、「脳内探訪」)の「安倍七騎をゆく」をご覧ください。



 七人の侍勢ぞろい!!


さて、七人には、次のスケジュールが待っています。そもそも、7月9日の“会議”はというと、

 安倍奥のスローな暮らしを体験したい――
 安倍川流域の地域興しに、安倍七騎が役立てることはできないか――


などといったことから始まったことで、「まずは、現地へ行ってみよう!」ということでした。

安倍街道をさらに5分ほど走ると、上落合の集落にはいります。そこには、拙著『安倍七騎』で取り上げた悲劇の英雄大石五郎右衛門のお墓と、五郎右衛門屋敷跡(今はサラ地)、それから、五郎右衛門最期の地「立ン場」 (矢を受けて、立ったまま死んだことから――)があります。

車をおりて小道を進むと、道端に色鮮やかに染め上がった梅干が夏の陽ざしを浴びて匂い立っています。その傍らには、すくっと紫蘇の葉がのびている。「これで、染めるんだね」「赤105号(着色料)は使う必要ないもんな」なんて会話をしながら、みなシャッターをきります。たぶん、山で暮らす人から見れば、「梅干なんか撮ってどうすんの?」なんて思うに違いありません。日常の、ごく当たり前のことでしょうから。こんな些細なことからも、我々との暮らしの違いを実感しました。

 

 真っ赤に染まった梅干。もちろん、癌を誘発させる「赤105号」なんて無縁です。
 ほら、画面下には紫蘇の葉が――。



 かつて、上落合の名主家だった長島家の蔵。その先に緑濃き山と夏の雲


さて、大石五郎右衛門のお墓へ。大石五郎右衛門事件があってから、四百有余年が経っています。けど、未だにこの集落の人は、このお墓を守っています。その昔、村人が五郎右衛門のことを、丁重に「ご先祖さん」と呼んでいたことがお墓の佇まいなどからも覗えました。

 

 墓前に『安倍七騎』を立てかけてみる。
 この日のお供えは、「将軍」という名のお酒。将軍は、武士の頂点に立つということでこの銘柄にしま した。
 

 安倍七騎の夏休みは、まだまだ続きます。



  


Posted by 安倍七騎 at 16:32Comments(2)徒然