2009年06月22日

駿河の海賊 vs 伊豆の海賊(vol.130)

6月17日(水)、静岡県港湾振興会様が講演講師として私を招いてくださった。
演題は「安倍七騎が馳せた時代 ― 清水湊のことなど ―」。
安倍七騎という山奥の話を書いたにもかかわらず海の話をするなど、一見無謀にもみえる。が、『安倍七騎』執筆当時、戦国時代の湊についても興味・関心があったので、これらについて調べ、物語に登場させた。

戦国時代の海賊――。
海賊といっても、現在ソマリア沖に出没するいわゆる“悪党”とはことなり、その宰領者が記した文書には、海軍、海兵としての位置づけで「海賊衆」としたためている。

戦国時代、駿河の海賊は、ほとんど伊豆北条水軍との戦いあった。
それは、西伊豆への侵略戦というものはまれで、駿河国土の防衛を主体とした戦いが多かった。

西伊豆の海岸線は入り組んだリアス式海岸であるため、「伏舟」といって、攻めてくる駿河海賊を入江に誘い込んだところを、岩陰に隠した軍船で、敵(駿河海賊)の背後を襲うという戦法がとれる。
また、崖の上から襲撃船めがけて岩を投げ落すといった戦法もとれるのだ。

一方、駿河の海岸はのっぺりとした海岸線だったため、北条海賊が三保半島に上陸したり、また、彼らによって巴川河口に築かれた清水袋城を奪われるといったこともあったらしい。
  


Posted by 安倍七騎 at 23:53Comments(0)徒然

2009年06月19日

東寺さん ―その2―(vol.129)

一ヶ月ほど前、『一個人 6月号 仏像入門』という月刊誌を買った。表紙には、赤みを帯びた阿修羅の木像。創刊9周年記念号ということでの保存永久版特集である。どうも私の場合“永久保存版”という書籍には手が出てしまう。

ある地銀の支店長さんとの会話で、話が仏像に及んだ。なんでも表紙の阿修羅像を東京まで観に行ったとのこと。平日で1時間待ちだったそうだ。以外にも若い女性が多かったという。阿修羅像を前に「ハンサム!」とこぼすらしい。

さて、東寺に行くまえにこの『一個人』を読んだが、永久保存版とあって、印(説法印、智拳印など、仏像の手の素振り)、光背、それから如来、菩薩、明王・天との違いなど、解説がわりと細かに書かれていた。

こういったベースがあると、仏像を前にしたとき、―覚えていないまでも―仏像の見方が変わってくる。
かれこれ、東寺講堂の立体曼荼羅諸尊を、一時間ほど眺めていた。また、講堂、金色堂の内部で天井を見上げると、日本の建築の美しさと力強さにも見惚れてしまう。




 東寺の門から食堂を望む:
 弘仁14年(823)、空海が東寺を賜る。
 東寺は、足利尊氏、織田信長が本陣を置いたところでもある。
 


 金堂(国宝・桃山時代):
 薬師三尊、十二神将がある。
 撮影禁止のため、諸仏の画像は撮れなかった。



 講堂(重要文化財・室町時代):
 曼荼羅諸尊が置かれている。
 天正10年(1582)6月、もし織田信長がここに宿したならば、この金堂、諸仏像も灰燼と帰したであろう。 
 暑い日だった。講堂の中は、冷っとしてとっても気持ちよかった。クーラーのそれとは異なっていた。



 五重塔(国宝・江戸時代)





 東寺さん近くの交番の看板
  


Posted by 安倍七騎 at 02:57Comments(0)徒然

2009年06月13日

東寺さん(vol.128)

「東寺はどこですか?」
と、土地の人に聞いた。むろん、京都の東寺界隈の人にである。
「東寺さんですか? この道まっすぐですよ」
―ほう、
と思わざるを得ない。
私たちよそ者は、東寺は観光名所として捉えているが、東寺界隈の人は、いわゆる“さん付け”で親しみ、馴染みを感じえた。

vol.127では、大阪の司馬遼太郎記念館訪問について触れた。司馬遼太郎記念館を訪れるまえに、この寺に立ち寄った。
東寺は、弘法大師ゆかりのお寺。司馬先生の『空海の風景』は、空海の人間のにおいを感じえる作品だった。

  


Posted by 安倍七騎 at 18:03Comments(0)

2009年06月04日

京都から足をのばして…(vol.127)

大阪の司馬遼太郎記念館へ行ってきました。
一週間にわたる京都での仕事を終え、その翌日(6月2日)は休暇をいただきました。

仕事を終え、ホテルに帰っての楽しみは、本を読むこと。
丁度、『翔ぶがごとく』の第十巻目(最終巻)を読み終えたところ、巻末に記念館への案内が載っていました。

京都駅から、近鉄京都線で大和西大寺へ。そこで近鉄奈良線に乗り換えて八戸ノ里(やえのさと)で下車。
駅から歩いて約10分のところに、記念館はありました。

4万冊にも及ぶ資料を読み、それを基に独自の史観をつむぎ出すといった作業には、改めて感服いたしました。
「遼か司馬遷には及ばず」とした、司馬遼太郎というペンネームは(本名 福田定一)、改めて謙遜のようにも思いました。

壁一面には蔵書が展示してあります。圧巻でした。また、先生が書かれた絵画も展示してありそれに添える言葉も深いものでした。

面白いことに、館内の天井には紙魚があり(天井はコンクリート)、それが坂本龍馬の顔に見えるのです。これは新聞の記事にもなっており、その記事も“龍馬像”のあたりに展示されていました。あいにく、館内は撮影禁止なので画像をお見せすることはできません。興味のある方は是非自分の目でお確かめください。




 司馬遼太郎記念館



 司馬遼太郎先生の本名は福田定一



 門を入り庭道を進むと、司馬先生の書斎が見える。
 室内は、絶筆時(『街道をゆく ― 濃尾三州記 ―』を書いていたとき)のまま



 さらに進むと、司馬遼太郎記念館へ



 庭先に猫がいた


  


Posted by 安倍七騎 at 02:15Comments(0)徒然