2008年02月29日
春の息吹(vol.24)
ここしばらく、私の住む街焼津市の週間天気予報では、最低気温が氷点下といった日々が続きました。しかし、2月28日現在のそれでは、ようやく氷点下の日々を脱出する模様です。予報どおり、このまま暖かくなってくれればよいのですが……。
さて、Vol.17で触れた永田有機農園の永田和徳さんも無事退院され、「今、家で飲んでいるよ」と電話がありました。永田さんの入院前から入院中にかけて、私は農園のお手伝いをさせてもらい、今年はいつもの年よりも少しだけ、自然と触れ合う機会も多かったように思います。
前回のVol.23では、熱海の梅園について触れました。園内に咲く紅白の梅もとっても綺麗でしたが、永田有機農園近くにある高草川沿いに咲く梅もなかなかのものです。畑からの帰りなど、この川沿いを通るようになり、「春はまだか……」「お、もうじきだ……」と、いった具合に思うわけであります。咲いた花や、開花間近の蕾そのものもいいものですが、花や蕾をつけ、斜陽に赤く染めあがった梅の樹なんかもなかなか風情があるなぁと、この川沿いの梅並木をながめつつ思いました。
もちろん、梅だけではなく、農園の作物からも、春の息吹は感じられます。今は、菜花(なばな)の収穫時期で、可憐な花の蕾がぎっしりとつまったこの作物は、まさに春到来を告げる野菜です。
* * * * 追 記 * * * *
菜花は、ブロッコリーの塩茹でのとおりのやり方で、沸かした塩水のなかに3~4分入れたあと、ざるなどで湯切りをします。それを、マヨネーズを添えたお皿にもると、おかず一品の出来上がり!! 一工夫して、マヨネーズーズにお醤油と七味唐辛子を和えたドレッシングで食べるのもおいしいです。
菜花は、これから一花咲かせようという蕾のかたまりですので、とても栄養価のある野菜です。
2008年02月26日
熱海梅園来訪のことなど(vol.23)
この梅園の中には、売店や食堂があり、また、イベントステージや、足湯などもあって施設も充実していました。
駅から直通のバスも出ていて(確か200円)、アクセスもよかったです。
熱海梅園の様子
私が梅園を訪れたのは、これが初めてですが、県庁の土木部港湾課に勤務していたときは、3年間熱海港の担当でした。
そんなわけで、私の場合、熱海というと、「港」と直結するわけであります。
港というと、船が係留する岸壁や、船揚場、荷捌き地などの港湾施設がピンとくると思いますが、港とはいっても、法律的にいえばそのエリアは存外に広く、熱海の場合、錦ヶ浦など船が停泊できないような、白波が打ち寄せるような海岸部分も、法律(港湾法)上は熱海港としての位置づけにあるわけです。
熱海の場合、これが実に厄介でした。というのも、風光明媚な土地だけに、海岸線を私物化する人がいました。本来、誰もがいけるはずの海岸に、立ち入りが出来なくなるような門を設けたり、また、波打ち際にプールや、岩場と岩場をつなぐ橋を、管理者である県の許可を受けずに勝手につくってしまうといった人がいるのです(もっとも、県では個人的に構築物を建設するもの許可は出さないというスタンス)。そういう人には、「誰のものでもないなら、俺のものだ」という理屈で構築物を建てるようですが、「誰のものでもないなら、それはみんなのものだ」という考えに立って、海を利用してもらいたいものだ――と当時も今もかわらぬ思いでおります。
この日は、そういった場所へは行かなかったですが、梅園を去ったあと、市街地に隣接する渚・横磯地区といわれる場所へは足をのばしました(余話――。ほかに熱海港内には、北に伊豆山地区、南に多賀地区といわれるエリアがあります)。小説『金色夜叉』で有名な、貫一、お宮の像があるのもこの渚・横磯地区であります。
そこに隣接する砂浜は、熱海サンビーチと呼ばれ、天気のよかったこの日は、ビーチバレーをする人がいました。また、ヨットの係留施設もサンビーチに隣接してあり、親水性のある公園色豊かな港湾エリアです。ここから、南を望むと、山上に熱海城がそびえていました。
親水公園の様子
もう少し時間があれば、ここにも寄ってみたかったですが(そこには、熱海秘宝館がある。どんな秘宝があるのかなぁ……、行ってみたかったなぁ……)、ともあれ、のんびりとした一日が過ごせました。今年は寒いせいか、まだまだ梅見頃はつづくようです。梅園などを訪れ、みなさんものんびりと熱海で一日を過ごしてみてはいかがでしょうか。
平七は、熱海の網元衆のひとり釜鳴屋平右衛門の息子。ある日、熱海で漁民一揆が起きた。平七は、理不尽な網元衆から離れて漁民側に立つも、その首謀者として大島へ島流しになり、かの地で死んでしまう。35歳の若さだった。しかし、残された漁民は、平七の遺志をついで網元衆と争い、ついには言い分を韮山の代官、江川氏に認めさせる。
2008年02月23日
奥藁科 栃沢のみなさんとの交流(vol.22)
私が初めて栃沢を訪れたのは、平成17年6月9日でした。『安倍七騎』の「第三章 坂本姫」を書いている途中で、想像に任せてペンを進めているうちに、土地勘などがおぼつかなくなり、「はて、筒野城落城ののち、城主高瀧将監の娘はどこの山へ逃げたのだろうか?」と、確認作業のために訪れたのでした。
この日、私は栃沢の背後にある突先山(「とっさきやま」/旧称:千柄山「ちがらやま」・標高1021m)に登り、その帰り際に、運よく郷土史に詳しい出雲武さん(平成20年現在87歳)にお会いし、それがご縁で、度々こちらへ伺うようになりました。
出雲さんは、春秋に行われる栃沢の子安神社(こやすじんじゃ)のお祭りに私を呼んでくださいます。また、毎春にこの集落挙って行われるお茶会にもお招きくださり、そして、その縁で、世界お茶博で銀賞を受賞した山水園(*)の内野清己さんと知り合って、さらには、この山間の集落に活気を吹き込む「たぬき村」の池田庭子(いけだ・ていこ)さんと常葉大学の学生さん、「たぬき村」をサポートする相墨清治(あいずみ・せいじ)さん、お茶の先生でもあるFMhi!ナビゲーターの相川香さんなどとの交流の輪が広がっていきました。
去る2月11日の「建国記念の日」、この日も出雲さんは、私を子安神社の例祭に招いてくださいました(例祭は、毎年2月11日と、11月3日に行われます)。このお祭りで出雲さんは古式ゆかしき舞を舞います。これを見たいがために、私は栃沢へ向かいました。が、あいにくこの日、午前中に所用があり、舞を見ることができませんでした。子安神社に着いたときは、もう後片付けの頃――。これは残念でしたが、元気な出雲に会えて、これはこれで良しとするかと思い直し、後片付けの群れに加わりました。
神社で出雲さんと別れたあと、私は、「たぬき村」を訪れました。「たぬき村」は築100年以上も前の家を中心として、その周りに、陶器を焼く竃(かまど)や、露天風呂(沢沿いにあって風情がある)などの施設があります。ここに常葉大学の学生さんが週末やお祭りのときなどにやって来て、栃沢の人たちと交流を図るのです。
「こんにちは」と、敷居を跨(また)ぐと、奥から「は~い」と張りのある元気な声が迎えてくれました。声の主は相墨さん。相墨さんとは、昨秋に行われた山水園でのお茶会以来でした。何人かの方で、囲炉裏を囲んでいらっしゃる。私もその輪の中に混ぜてもらい、また新しい交流の輪が広がりました。いらした方々は、常葉大学で造形学の教鞭をとられる清水先生、出雲昭治さん、出雲正市さん(ふたりの出雲さんは、出雲武さんのご一党)――。相墨さんは囲炉裏火で炊いたお湯でお茶を淹れてくれ、また、漬物を出してくれました。これがまた美味しい!! しばし、くゆり立つホタ火を囲んで、出雲家のご先祖のはなし、戦時中の正市さんの体験談(アメリカの爆撃機であるB29を撃ち落す最新式の高射砲を撃った、とか、原爆直後の広島を訪れたことなど――)、それから、栃沢の昔話(戦国落人 勝見氏のはなし、昭和初期におきた「栃沢の大火」のはなしなど――)などのはなしに耳を傾けました。
やぁ――、栃沢は面白し!! みなさんも、栃沢へ是非!!
たぬき村の囲炉裏端にて ―― (右から)相墨さん、出雲昭治さん、出雲正市さん。お孫さんの「おじいちゃんが心配で、迎えに来たよ」の言葉に、笑顔で応える正市さん。奥ではお酒に酔った学生さんが、すやすやと寝息をたてていました。
* * * * 追 記 * * * *
山 水 園
毎年春と秋にお茶会が開かれます。
昨年の例でいきますと、このお茶会は、屋内での啜り茶、お抹茶などのほか、野点(のだて)や茶摘み体験などもさせてくれます。また、お茶会の待ち時間には、おむすびや漬物、お味噌汁などを振舞ってくれ、さらには、袋に「おかげさんで」と記した、お茶のお土産まで持たせてくれました。これらは何れも無料でした。
感謝、感謝――。
( 山水園連絡先 / 住所:静岡市葵区栃沢421番地 電話:054-291-2219 )
2008年02月20日
安倍七騎とその風景を訪ねるツアー(仮)の下見(vol.21)
これは、静岡市賤機都市山村交流センター「安倍ごころ」(葵区牛妻)にて、「歴史探訪 安倍七騎」(仮題)と題する講演のあと、そのゆかりの場所場所(七騎とされる人の墳墓、居館跡など)を訪ねるといったもので、また、当ホームページの「観光案内」に載っている蕎麦の「つど野」で食事をしたり、梅ヶ島新田温泉「黄金の湯」の温泉につかるなどといったものです。
このツアーは、駿府静岡歴史楽会(すんぷしずおかれきしがっかい)が企画するもので、去る2月7日(木)、同会の影山満会長と高島寛之事務局長の三人で、このツアーの下見に行ってきました。
50分、我々は葵区俵峰(安倍七騎、杉山小兵衛と望月四郎右衛門がいたところ)に到着し、この集落の中心に位置する小丘に立ちました。ここは、『安倍七騎』巻頭のカラー写真で掲載した、茶畑のなかに大きな桜の樹があるところです。この桜も見事ですが、4月の中旬には、俵峰の背後の山々には山桜が咲き、とてもきれいなところです。また、ここはかなりの標高のところで、その見晴らしと澄みきった空気がとても心地よいところでもあります。私達が、桜の樹の下で話していると、近くで農作業をされていた男性がやって来られ、「この場所では正月用の餅をつかない」とか、「牛を飼わない風習があった」など、色々なはなしをしてくれました。また、はなしが安倍七騎に及ぶと、この方(――浅野さんと云われた――)は、
「なんでも、この前、焼津の人が安倍七騎を小説にしたそうで……」
と、拙著をご存知でした。すると、
「その著者が、この人ですよ」
と影山会長が、あたりの山野にこだまするほど磊落(らいらく)に笑い、浅野さんに私を紹介してくださいました。
2月は逃げる」「3月は去る」といいます。4月はあっという間にやってくるでしょう。さあ、こちらの準備にもそろそろとりかからねば……。
影山会長(左)と高島事務局長(葵区俵峰にて)
2008年02月16日
藁科歴史地理講座(第三回) (vol.20)
今号も、前号に引き続いて「藁科歴史地理講座(第三回)」のことですが、講座で用いたレジュメの項目ごとに、ざっと触れてみます(太字はレジュメ記載の項目等)。
「郷土藁科が育んだもの ――小説『安倍七騎』を書き終えて――」
1 考察 安倍七騎
ア 七人の侍は誰だ?
安倍七騎とされる人物は案外多い。
拙著でとりあげた七人のほか、ほかにどんな名があげられるのか?
イ その時代と位置づけなど
「猪河(井川)山軍」といわれた平安末期の武士団が安倍七騎なのか? それとも、南北朝の頃の武士団か? 或いは戦国時代の武士団なのか? 戦国時代なら、今川が駿河を支配していた頃? それとも、武田の頃か? 徳川の頃か?――。
拙著『安倍七騎』が武田氏の頃の武士団としたわけは……?
そして、彼らの役割は何だったのか?
2 小説としての安倍七騎
『安倍七騎』のあらすじについて
3 伝承としての安倍七騎
大石五郎右衛門の最期、杉山小兵衛にまつわる伝承について
四百数十年も経っても、なぜ伝承として後世に伝わるのか?
4 郷土藁科が育んだもの ―― それは地名に息づいている ――
ア 大間
イ 赤沢、小島、日向
ウ 鍵穴
エ その他
アからエのこれらの地名が意味するものは?
追記 ―― 地名はまさしく“カントリーサイン”――
地名には言霊が宿っているだけでなく、私どもの先祖の暮らしや歴史が刻印づけれられていると思っている。(司馬遼太郎著/『街道をゆく第29巻 飛騨紀行』より)