2011年10月31日
玉川小学校の鈴懸の木(vol.218)
桂山にある玉小学校の鈴懸の木(洋名 プラタナス)が色づきました。
ご覧のとおり、現在玉川小学校の校庭には4本の鈴懸の木がありますが(―画像では5本に見えますが、右側の4本が鈴懸の木、左側の1本が銀杏の木です―)、これらの木の間隔は10メートル間隔です。
これは、メートル法が施行された大正時代に、子ども達が早くメートルに馴染むようにと植えられたものでした。
もともとは、10本あったのですが、その経緯については来月発行される「玉川新聞 秋号」(発行者:安倍奥の会)に掲載しました。どうぞご覧ください。
Posted by 安倍七騎 at
20:36
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2011年10月18日
娘のこと(vol.217)
今月6日、娘を授かった。
46歳にしてである。
さて、名前をなににしようか…。
と思いや考えを巡らすのは親の常で、また義務(あるいは責任)でもある。
私たち夫婦が娘につけた名は「美里」である。
里ざとの木々が色づきはじめる、美しい季節に生まれた子――。
震災で否応なく思い知らされたふるさとの尊さ。私たちの美しいふるさとがずっと続きますように――。
などの思いを込めての命名となった。

出生時、身長51センチ、体重3555グラムの大きな赤ちゃんでした。
46歳にしてである。
さて、名前をなににしようか…。
と思いや考えを巡らすのは親の常で、また義務(あるいは責任)でもある。
私たち夫婦が娘につけた名は「美里」である。
里ざとの木々が色づきはじめる、美しい季節に生まれた子――。
震災で否応なく思い知らされたふるさとの尊さ。私たちの美しいふるさとがずっと続きますように――。
などの思いを込めての命名となった。
出生時、身長51センチ、体重3555グラムの大きな赤ちゃんでした。
2011年10月15日
父のこと(vol.216)
今日、10月15日は、私の父、祐一の命日である。
父が逝って、43年が経つ。
生前の父の記憶を辿ると、夜、布団にうつ伏せになって、本を読んでいたことが思い出される。
その本を覗くと“桜に碇”模様の、七つ釦の青年の写真が載っていた。
父は、特攻隊の志願兵だったので、当時を振り返ってのことだった。
今改めて父の本棚を見ると、大東亜戦争を扱った書籍のほか、『燃えよ剣』『国盗り物語』など、司馬遼太郎先生の書籍がならんでいる。
私が『安倍七騎』を著したことには、亡父の影響が多分にあったことは間違いない。

父の膝に座る私
父が逝って、43年が経つ。
生前の父の記憶を辿ると、夜、布団にうつ伏せになって、本を読んでいたことが思い出される。
その本を覗くと“桜に碇”模様の、七つ釦の青年の写真が載っていた。
父は、特攻隊の志願兵だったので、当時を振り返ってのことだった。
今改めて父の本棚を見ると、大東亜戦争を扱った書籍のほか、『燃えよ剣』『国盗り物語』など、司馬遼太郎先生の書籍がならんでいる。
私が『安倍七騎』を著したことには、亡父の影響が多分にあったことは間違いない。
父の膝に座る私
2011年10月12日
2011年10月08日
航跡に思う(vol.214)
駿河湾フェリーで、土肥港を離れるときに撮影しました。
土肥港は、私が静岡県港湾課在籍時代に3年間担当した港湾で、思い出のある港のひとつです。
天正時代、土肥は金を産出したところです。
ここは富永氏という水軍の根城だったところですが、この富永一党は羽振りのよい水軍だったようです。
一方、同じ西伊豆海岸の雲見にいた高橋という水軍の親方は貧乏で、
丹波殿 女房を質に ご出陣
といったうたがあるほどです。
さて、この日10月7日の土肥行きは、駿河湾海上交通活性化協議会(靭矢雅浩会長・静岡市経済局長)に出席するためでした。魅力のある歴史文化を発信して、土肥に旅客が訪れるようにすることも、駿河湾海上交通に大事なことと思われます。
Posted by 安倍七騎 at
22:51
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