2011年06月30日
『清流 安倍藁科ものがたり』発刊(vol.207)
2010年3月から、全8章40回にわたり静岡新聞に連載された「安倍・藁科川ものがたり」が、『清流 安倍藁科ものがたり』として、静岡新聞社から発刊されました。

第1章の1回目に、安倍七騎の大石五郎右衛門について語る私を載せていただきました。
第1章の1回目に、安倍七騎の大石五郎右衛門について語る私を載せていただきました。
2011年06月17日
2011年06月12日
内一ツ そぼかい(vol.205)
本日、坂本愛郷の会(葵区坂本、山田唯夫会長)の会合があり、行ってきました。議題は「坂本愛郷マップの作成について」ということで、歴史の宝庫坂本のマップづくりのことでした。
開会の前、私が坂本のあるお宅で目にしたのが、標題の「そぼかい」でした。
徳川家康公が駿府城を居城としてから、井川と駿府城を結ぶ安倍街道で御茶壷道中が行われました。その運営を任されていたのが、井川の海野弥兵衛と柿島の朝倉在重でした。
茶匠宋圓(そうえん)から海野弥兵衛に宛てた「御茶壷銘状」(慶長十七子五月五日付け)という御茶の送り状には、
尾張宰相様
一、玉虫之 御壷一ツ
遠江宰相様
一、楊柳 御壷一ツ
一、御あちゃ様御壷一ツ
内一ツ そぼかい
と、あります。
蔵宅のご主人によると、「そぼかい」は「祖母懐」とのことで、豊臣秀吉公の愛蔵の品だったとのことです。
「祖母懐」とは、なんと味のある言葉でしょう。


耳を近づけると、「ゴーッ」という低い音が聞こえました。
開会の前、私が坂本のあるお宅で目にしたのが、標題の「そぼかい」でした。
徳川家康公が駿府城を居城としてから、井川と駿府城を結ぶ安倍街道で御茶壷道中が行われました。その運営を任されていたのが、井川の海野弥兵衛と柿島の朝倉在重でした。
茶匠宋圓(そうえん)から海野弥兵衛に宛てた「御茶壷銘状」(慶長十七子五月五日付け)という御茶の送り状には、
尾張宰相様
一、玉虫之 御壷一ツ
遠江宰相様
一、楊柳 御壷一ツ
一、御あちゃ様御壷一ツ
内一ツ そぼかい
と、あります。
蔵宅のご主人によると、「そぼかい」は「祖母懐」とのことで、豊臣秀吉公の愛蔵の品だったとのことです。
「祖母懐」とは、なんと味のある言葉でしょう。
耳を近づけると、「ゴーッ」という低い音が聞こえました。
2011年06月05日
産女観音さん(vol.204)
今年の春のことですが、出産を控えた妻と産女山正信院(うぶめさんしょうしんいん)へ行ってきました。
ここは、安産祈願のお寺です。
戦国時代、今川氏真が甲斐の武田氏によって駿河府中を追われるとき、その家臣、牧野喜藤兵衛(まきの・きとうべい)も氏真とともに落ち延びました。そのとき、身重だった藤兵衛の妻も一緒でしたが、正信院の近くで産気づき、ついにそこで死んでしまいました。
それからというもの、夜な夜な妻が亡霊となって「産むのを手伝ってほしい」と村人に訴えるので、村人が「既に亡くなってしまわれたので、私達にはどうすることもできません」と告げると、「我が夫の兜のしころの内側に、家伝の千手観音様があります。この仏様に祈ってくださればよいのです」と言い、さらに「みなさんもこの千手観音様に手を合せると、安産になるでしょう」と告げました。
村人たちは妻の言うとおりにすると、妻が今一度亡霊となって現われて、「この村をお守りしたいと思いますので、私を祀ってください」と言ったので、村人は「産女大明神」として祀りました。
爾来、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。
この伝説は、同時にこの村の名「産女(うぶめ)」の由来となるのです。
ここは、安産祈願のお寺です。
戦国時代、今川氏真が甲斐の武田氏によって駿河府中を追われるとき、その家臣、牧野喜藤兵衛(まきの・きとうべい)も氏真とともに落ち延びました。そのとき、身重だった藤兵衛の妻も一緒でしたが、正信院の近くで産気づき、ついにそこで死んでしまいました。
それからというもの、夜な夜な妻が亡霊となって「産むのを手伝ってほしい」と村人に訴えるので、村人が「既に亡くなってしまわれたので、私達にはどうすることもできません」と告げると、「我が夫の兜のしころの内側に、家伝の千手観音様があります。この仏様に祈ってくださればよいのです」と言い、さらに「みなさんもこの千手観音様に手を合せると、安産になるでしょう」と告げました。
村人たちは妻の言うとおりにすると、妻が今一度亡霊となって現われて、「この村をお守りしたいと思いますので、私を祀ってください」と言ったので、村人は「産女大明神」として祀りました。
爾来、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。
この伝説は、同時にこの村の名「産女(うぶめ)」の由来となるのです。