2012年05月02日

山神考―yamagami-koh― (vol.236)

 vol.232では、奥池ヶ谷城落城伝説を、物語り風に紹介しました。
 城主友任氏の家族は、結果として散り散りに逃げて、みな哀しい最期を遂げたわけですが、友任氏本人は、口仙俣の「広海戸」(「広海道」とも云う)というところで切腹したと伝えられます。その後友任氏は、口仙俣で「山神」として祀られるようになりました。
 ときは同じく戦国時代のことで、玉川地区より川下の津渡野には、津渡野城の落城悲話が残っています。この城のお姫様は、山越えをして清沢村(現葵区坂本)まで落ち延びましたが、やはり自害して、「姫山神」として祀られました(『清沢村誌』)。「山神」などは、岩手県の遠野地方の伝承を記した『遠野物語』(柳田国男著)にも出てきますが、「姫山神」とは、珍しい呼称だと思います。
 いずれにせよ、安倍・藁科川筋界隈では、不幸な最期を遂げた人は、その実力や身分相応に、「山神」「姫山神」となるようです。また、土地の人がそのように呼ぶのには、憤死者に対して哀悼の意を捧げることのほか、その怨霊・災禍を恐れての思いがあるようです(―丁度それは、出雲大社に祀られている神のように―)。
 そう云えば、口仙俣の住人白鳥玄可の放った矢によって斃れた大石五郎右衛門(安倍七騎)も、死後「山神」として祀られたと『玉川村誌』は伝えます。五郎右衛門の死後、その愛刀「備前守正則」が不幸をもたらすといった伝説があるので、これなどは、五郎右衛門の怨霊を恐れて「山神」としたように思えます。


  


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2012年02月18日

小説 友任哀史 ―ともどう・あいし―  (vol.232)

  
 ときは永禄年間――。
 ひっそりと寝静まりかえった安倍奥玉川の奥池ヶ谷城界隈は、摺墨(するすみ)を押し流したかのような闇夜であった。この戦国の山城の脇をはしる安倍街道は、北辺の甲斐の虎、武田信玄入道に不穏な動きあらば、駿府の今川氏真邸に早馬を飛ばす軍用道路である。
 その道を粛々とおし進み、城の大手口を取り囲む一団があった。馬口に食ませた枚(ばい)を解いたか、その嘶きと共に城門を打ち破る槌音が鳴り渡る――。
 すわ、ふいを衝かれた城主友任は、寝所の戸板を蹴破って庭に立つと、家来どもを城の要所要所へと差配し、自らも弓をつがえて、修羅の鬼と化した。しかし、箙(えびら)に束ねた矢数を上回る敵勢である。やがて矢が尽き剣も折れると、妻子、家来をうち連れて城裏手口から脱した。が、友任一行のその先を清流中河内の流れが阻んでいる。ときを待たず追手が迫るは必定であった。友任は我が命には諦めがつくが、不憫に思うは妻の胸に抱かれた赤子であった。一計を案じた友任は、妻に中河内川の浅瀬を指し示してこれを渡らせると、残兵(ざんぺい)に鬨(とき)の声を上げさせて、嫡子(ちゃくし)とともに川上へと遁(はし)った。
 その後、友任は川上の仙俣村で切腹。嫡子はその手前の栗駒で敵の刃にかかった。
 爾来、嫡子討ち死にの栗駒の森を“御曹司の森”と云い、父の願い叶わず水没した赤子の淵を“赤子淵”と呼ぶ。
           ―― 了 ――

  


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2012年01月21日

浪人坂のお話など(vol.231)

今日は藤枝市は野田沢(のたんざわ・旧志太郡岡部町)にある増田辨之助(昭和3年生まれ:ますだ・べんのすけ)さんのお宅を訪ねた。増田さんは、『安倍七騎』初版発行後すぐに拙宅に電話をくれ、本を買い求めてくれた方。だから、5~6年前からのお付き合いになる。

午後3時、小雨にけむるなか、野田沢に架かる赤い小橋をこえ、増田さん宅を訪れた。
玄関引き戸を開けるとそこは土間、土間の左手が客間、客間の右が居間といった日本古来の佇まいの住宅である。

増田さん宅でのお話―。
・この岡部の殿(との:拙著『安倍七騎』に登場する朝比奈氏の菩提寺があるところ)と静岡の飯間(はんま:藁科川沿いにあった小瀬戸城の兵を養うために“ご飯”をつくったところ)を結ぶ野田沢の道の歴史は古い。徳川家康が駿府城入城にあたり、通ったとされる道でもある。

・この道沿いに「義経のかくれ石」があったが、道の拡張整備にあたり、方丈さんによるお祓いののち、土中に埋められた。

・その昔、ひとりの浪人かこの道を行くと、侍ふたりと決闘となり―ふたりに前後をはさまれたのち―斬られた。その“ローニンさん”を村人が介抱したとき、おのれの死を悟った“ローニンさん”は「ここで(―斬られた場所で―)何事があっても怪我はさせない」と言い、しばらくののち死んだという。その言葉のとおり、そこの坂「浪人坂」では怪我がでないといわれている。増田さんの弟さんも、ここで若いドライバーが運転する乗用車と衝突したが、無事に済んだという。

かれこれ小一時間、こんな話に花が咲いた。



赤い小橋のたもとに実った真っ赤な南天の実



増田さんのお宅



並んだ養蜂箱の右手(野田沢の下流側)に「義経のかくれ石」が埋まっている



ローニンさんのお墓。今も村人による香華が絶えない



お墓に刻まれた文字(90度回転で見てください)  


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2011年12月01日

寒くなりましたですな(vol.227)

12月の声を聞き、寒さがグンと迫ってきました。
そんなときは、やっぱりコレですな。



家業だった焼津港運送のトラックドライバー佐々木さんからの贈り物。
佐々木さんとは、40年来のお付き合い。

氷雨が降る今夜は、水しぶきをあげて走り去る車の音を聞きながら、ぽつりぽつりと飲(や)っています。

  


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2011年11月28日

橋本新大阪市長のいう“独裁者”(vol.226)

昨夜、橋本大阪新市長が誕生した。
橋本氏は、大阪府知事時代に「今こそ独裁者が必要だ」ということを壇上で発言し、眉を顰める人もあった。

戦国時代、今川義元公のころになると、今川氏は重臣との協議によって駿河国の方針などを決めた。
その点、隣国の支配者織田信長公ひとりの英断によって、義元公を桶狭間で破った。

混沌とした現代、橋本氏のいう“独裁者”を時代が求めているのかもしれない。

ただし、これもバランスの問題。かつてのルーマニア国と、それを統治した独裁者チャウシェスク(―名大統領で名をはせた時期もあった―)の顛末を忘れてはいけない。

  


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2011年11月27日

福島県の四倉ふれあい市民会議さん来静(vol.225)

昨夜、しずおか食の未来実現会議(代表 上川陽子氏)さんが、四倉ふれあい市民会議(代表 佐藤雄二氏)の会員14名の方を呼び、交流会が開催されました。

四倉ふれあい市民会議は、被災地四倉地区(いわき市)の将来像の策定・復興を目的に設立されました。

当日、四倉からやって来られたご一行は、静岡産業フェアを視察後、交流会に参加しました。

交流会では、フェア出展のシラスを見て「いわきでもシラスが揚がるんだが、売ることが出来ないんだよ」という胸のうちが明かされ、また、「福島の紅葉は素晴らしいのだが、静岡を訪れて、今年はじめて紅葉を目にしました」など、現地の実情などを伺い知ることができました。

被災地への支援は、まだまだ不足しているようです。席上、上川陽子代表が言われたように、「狭い日本国内での支え合い」「親戚以上のつきあい」が必要だと思いました。

福島ファンクラブ会員(―数年前にインターネットにて登録―)でもある私は、これからも福島を応援してゆきます。




  


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2011年11月21日

なかなかのハードパンチャー(vol.224)



娘のことです。
夜中に、ハートのグローブから繰り出すアッパーを2発、あごに喰らいました。
それでも父はダウンを許されず、朝まで添い寝を続けました。



ちなみにこれは、父愛用のメキシコ製グローブ「カサノバ」。

  


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2011年11月19日

玉川の城山橋(vol.223)

玉川の長妻田と柿島の境に「城山橋」という小さな橋がある。
この橋の近くには、辺り一帯を支配していた朝倉氏の館があった。

戦国時代、大名クラスでは武田氏、今川氏がそうであったように、柿島の朝倉氏も普段は館で過ごし、有事の際には、裏手の山に築いた城に篭もったようだ。



  


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2011年11月18日

平野雅彦先生の手帳のおはなし(vol.222)

紺屋町地下街にある伊太利亭で、平野雅彦先生(静岡大学、東海短期大学講師)による「平野流 手帳のはなし、情報管理のはなし」講座が行われました。

先生の「手帳遍歴」「スケジュール情報管理」「スケジュール帳・手帳・ノートの遊び方、使い方」といった項目で、講座は進められました。

自分にとってベストな情報管理は何か――必ずしも万人にとってやり易いというものはない。自分はこれが一番と思っていても、人によってはそれが苦痛な場合もあるのだ、といった前提がありながらも、心理学にもかなった先生の仕方は、とってもユニークなものでした。



先生の講座の楽しみのひとつはそのレジュメ。
さらっと書いた“手作りレジュメ”なのである。  


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2011年11月09日

柿島の地蔵堂(vol.221)



その昔、安倍街道をゆく木枯しの紋次郎が、このお堂で一夜を明かしたのかもしれません。



上州新田郡(にったごおり)三日月村の
貧しい農家に生まれたという
十歳の時に故郷を捨て
その後、一家は離散したと
伝えられる
天涯孤独な紋次郎が
なぜ無宿渡世の世界に入ったかは
定かではない  


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2011年11月08日

今日は立冬(vol.220)



画像は、玉川小学校グランドから見た月です。
白鬚神社(―画像右側の山上が社殿―)の木立を縫って、団々と昇ってゆきます。
また一見、お月さんがお宮参りをしているようにも見えませんか?

一昨日、玉川小学校グランドを発着点とした、第1回玉川トレイルレースが行われました。
そして、昨日、静岡第一テレビ放送の「エブリィ静岡」(18:15~)でこの様子が放送されましたが、番組中、玉川地区地域支援員の服部俊介さんが、「玉川には山しかない。そこで、トレイルレースをしようと思い立った」と言われました。

整備されたトレイルレースのコースは、これから毎年行われる同大会のコースとして利用されますが、普段は、トレッキングコースとして利用されます。
このトレッキングコースは、玉川地区へ人を呼ぶ「玉川の名物」となるでしょう。

今日は、立冬―。
これからは、夜空が澄みわたる“天体の季節”でもあります。
冒頭の月を撮影したとき、「ここから望む月、これは玉川の名物だ」と思いました(―玉川には、見月山という山もあるくらいですから―)。

車中、アンドレ・ギャニオンの『夕暮れから』を聴きながら、みなさんも月夜の玉川を訪れてみてはいかがでしょう。
  


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2011年11月01日

ご飯に添えた生姜の漬物(vol.219)

 

私の晩ごはん、ワンプレートに盛ったのは、卯の花、小樽で手に入れた冷酒グラスには地酒の杉錦…。
銀シャリに添えた漬物は、生姜の甘煮に生姜の梅酢漬け。

生姜2品は、玉川地区内匠の和田さん(眞明・なおみ夫妻)からの頂き物です。
この生姜は私の元気の源です。
朝ご飯に生姜を添えて食べると、元気が百倍!!
特にこれからの季節には欠かせません。
和田さんは、週末に葵区牛妻の「安倍ごころ」の軒先に出店します。
漬物などの食品のほか、布ぞうりや、シャレたミサンガなども扱います。  


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2011年10月18日

娘のこと(vol.217)

今月6日、娘を授かった。
46歳にしてである。
さて、名前をなににしようか…。
と思いや考えを巡らすのは親の常で、また義務(あるいは責任)でもある。

私たち夫婦が娘につけた名は「美里」である。
里ざとの木々が色づきはじめる、美しい季節に生まれた子――。
震災で否応なく思い知らされたふるさとの尊さ。私たちの美しいふるさとがずっと続きますように――。
などの思いを込めての命名となった。



出生時、身長51センチ、体重3555グラムの大きな赤ちゃんでした。  


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2011年10月15日

父のこと(vol.216)

今日、10月15日は、私の父、祐一の命日である。
父が逝って、43年が経つ。
生前の父の記憶を辿ると、夜、布団にうつ伏せになって、本を読んでいたことが思い出される。
その本を覗くと“桜に碇”模様の、七つ釦の青年の写真が載っていた。
父は、特攻隊の志願兵だったので、当時を振り返ってのことだった。
今改めて父の本棚を見ると、大東亜戦争を扱った書籍のほか、『燃えよ剣』『国盗り物語』など、司馬遼太郎先生の書籍がならんでいる。
私が『安倍七騎』を著したことには、亡父の影響が多分にあったことは間違いない。




父の膝に座る私  


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2011年08月07日

今年も“曹源寺坂の流しそうめん祭り”(vol.210)

今年も曹源寺(葵区柿島)にて、標記のお祭りが開催されました(主催:安倍奥の会)




曹源寺の参道に設置された「竹スライダー」




今年で第2回目。
暑い一日でしたが、涼しくて美味しいおそうめんを味わいました。




大賑わいの境内。約600人の方が訪れました。




今年も行われた、ちびっ子に大人気のヨーヨーすくい




伽藍座長による一人芝居「柿島に侍二人」
曹源寺(朝倉家の菩提寺)の本堂で行われました。




安倍七騎の一人、大石五郎右衛門とその義兄朝倉在重を熱演しました。
丁度この日(8月7日)は、上落合で大石五郎右衛門の供養が行われました。
  


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2011年07月24日

「伝説のふるさと 坂本愛郷マップ」作成中(vol.209)

『安倍七騎』取材で訪れた葵区坂本では、坂本愛郷の会(会長 山田唯夫さん)のみなさんによって、標題のマップづくりがすすんでいます。
岩田さゆりさんの楽しくてユニークなイラストにより、一層親しみがわいてきます。
乞うご期待!!

  


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2011年06月30日

『清流 安倍藁科ものがたり』発刊(vol.207)

2010年3月から、全8章40回にわたり静岡新聞に連載された「安倍・藁科川ものがたり」が、『清流 安倍藁科ものがたり』として、静岡新聞社から発刊されました。



第1章の1回目に、安倍七騎の大石五郎右衛門について語る私を載せていただきました。

  


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2011年06月17日

坂本の点景(vol.206)





  


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2011年06月12日

内一ツ そぼかい(vol.205)

本日、坂本愛郷の会(葵区坂本、山田唯夫会長)の会合があり、行ってきました。議題は「坂本愛郷マップの作成について」ということで、歴史の宝庫坂本のマップづくりのことでした。

開会の前、私が坂本のあるお宅で目にしたのが、標題の「そぼかい」でした。

徳川家康公が駿府城を居城としてから、井川と駿府城を結ぶ安倍街道で御茶壷道中が行われました。その運営を任されていたのが、井川の海野弥兵衛と柿島の朝倉在重でした。

茶匠宋圓(そうえん)から海野弥兵衛に宛てた「御茶壷銘状」(慶長十七子五月五日付け)という御茶の送り状には、

尾張宰相様
一、玉虫之 御壷一ツ
遠江宰相様
一、楊柳 御壷一ツ
一、御あちゃ様御壷一ツ
  内一ツ そぼかい

と、あります。

蔵宅のご主人によると、「そぼかい」は「祖母懐」とのことで、豊臣秀吉公の愛蔵の品だったとのことです。
「祖母懐」とは、なんと味のある言葉でしょう。





耳を近づけると、「ゴーッ」という低い音が聞こえました。


  


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2011年06月05日

産女観音さん(vol.204)

今年の春のことですが、出産を控えた妻と産女山正信院(うぶめさんしょうしんいん)へ行ってきました。
ここは、安産祈願のお寺です。

戦国時代、今川氏真が甲斐の武田氏によって駿河府中を追われるとき、その家臣、牧野喜藤兵衛(まきの・きとうべい)も氏真とともに落ち延びました。そのとき、身重だった藤兵衛の妻も一緒でしたが、正信院の近くで産気づき、ついにそこで死んでしまいました。
それからというもの、夜な夜な妻が亡霊となって「産むのを手伝ってほしい」と村人に訴えるので、村人が「既に亡くなってしまわれたので、私達にはどうすることもできません」と告げると、「我が夫の兜のしころの内側に、家伝の千手観音様があります。この仏様に祈ってくださればよいのです」と言い、さらに「みなさんもこの千手観音様に手を合せると、安産になるでしょう」と告げました。
村人たちは妻の言うとおりにすると、妻が今一度亡霊となって現われて、「この村をお守りしたいと思いますので、私を祀ってください」と言ったので、村人は「産女大明神」として祀りました。
爾来、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。
この伝説は、同時にこの村の名「産女(うぶめ)」の由来となるのです。

  


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