2008年06月27日

劇団らせん劇場の「王様と私っち」のことなど(vol.52)

6月22日(日)は、そぼ降る雨の日でした。こんな雨の休日の娯楽には、映画や観劇など、室内ものがいいですね。

この日、寿町倉庫(静岡市駿河区寿町)では、劇団らせん劇場の「王様と私っち」がかかっていました。

とある国で、何百年も脈々と続く王の継承――。
しかし、必ずしも真の継承者が王を継承しているわけではない。
さて、この物語である。6畳ほどの畳間に、「鈴木さん」を名乗る一家4人が暮らしている。その衣装は、王冠を冠した西洋の王族の衣装。そう、彼らこそが傍流に追いやられた正統な王家一族なのである。そして、この正統王家に忠実に仕える、「王家鈴木さんち」の隣の家に住む山田さん。果たして、鈴木さんちの御家再興はなるのか?その行く末はいかに・・・。


「とある国」としながらもちぐはぐな和洋折衷の設定、王族と大衆のギャップが面白かったです。
らせん劇場は、今作品で「act.64」だそうです。安倍七騎一作で“産みの苦しみ”を実感した私にとって(“楽しい苦しみ”ではあるのですが――)、64という数字は実に驚異です。



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  これだもん・・・。



     追    記


らせん劇場の団長の都築はじめさんや、劇団員の四季妙雅さんとは、れいの伊太利亭で知り合った方々です。

昨日、私は伊太利亭に行きました。
安倍七騎をはじめとした安倍奥の伝説を安倍奥の地域振興に役立てることはできないかということで、 「すろーらいふ」編集者の原田さやかさんと、静岡市役所の今川俊一さんとで話し合うためでした。

静岡市葵区坂本のことのように(ブログvol.41の、「その後の坂本姫の顔洗い場」参照)、また安倍七騎が地域振興のお役にたてる機会がやってくるかもしれません。

よーし、頑張るぞ!!
  


Posted by 安倍七騎 at 23:24Comments(0)催事

2008年06月23日

キャンドルナイトの夜(vol.51)

ちょっと、タイトルに「キュリー夫人の夫」的な違和感を覚えますが、それはともかく、毎年夏至と冬至の日は、キャンドルナイトの夜です。

6月21日夏至――。
ハンバーグとパスタのお店「伊太利亭」(静岡市葵区紺屋町)では、午後6時30分から9時ごろまで店内の照明をおとし、キャンドルに灯をともしました。そうすることで節電に心掛け、CO2削減につなげようというものです。

蛍光灯の白い灯りよりも、キャンドルは温かみがあり、視覚からもお料理が一層美味しく感じられるものです。

また、映し出される人々の顔も柔和で美しく見えるものです。

ふと、

 清水へ 祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人 みな美しき

という与謝野晶子さんの歌を思い出しました。この歌の情景(―― 提灯に映し出された人々の顔 ――)も、こんなところではなかったでしょうか。

さて、伊太利亭で毎月第三金曜日に行われる「金曜プラスの会」(食の安全や農業に関心のある方、自由参加。 是非!! 夜8時から)も、これからは“キャンドルナイト”で行われることになりました。

各家庭でも、「毎週○曜日と○曜日は、キャンドルナイト」とするのもいいかもしれません。 

何せ、地球温暖化は待ってくれませんから。


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 さまざまなキャンドル。みんなきれいですね。



 これはかわいい。温泉につかっているようですね。



 竹を利用した手づくりキャンドル。焙煎堂(HPにあるリンク集参照)の川口さんの作品です。



 水に浮くものやカンテラ型のものもありました。



 お店の前を通る人は「おやっ」と思ったことでしょう。
 けど、この「おやっ……、何やってるの?」が大事なんですよね。


 
 ホントですなぁ……。



 


  


Posted by 安倍七騎 at 23:30Comments(0)催事

2008年06月18日

橋の名前に思いを馳せれば(vol.50)

私の住む焼津市浜当目には、向橋(むかいばし)という橋があります。『安倍七騎』執筆中にこの橋の名前を耳にして、
――ひょっとしたら……。
と、あることを思いました。

『安倍七騎』では、殿山にたつ遠目砦(焼津市浜当目)について触れましたが、向橋は、殿山山麓を流れる石脇川に架かる橋です。

遠目砦――。
この遠目砦は、武田氏による駿河統治の時代、水軍の城(海賊城)だった花沢城(焼津市花沢)の支城砦としての位置づけでした。そんなことから、遠目砦も水軍に関わる砦であったといわれております。

さて、この遠目砦を誰が宰領していたか? 
一説によると、屋代正国(やしろ・まさくに)という武将が宰領していたといわれます。が、屋代正国は、花沢城の宰領者ともいわれ、その管轄下にあった遠目砦をも含めての宰領者ではなかったかと思われます。

話を「むかい」に戻します。
武田氏の家来に、向井兵庫という海賊の大将がおりました。『安倍七騎』にも、男映えのする好漢として描いた男です。

実際、向井兵庫は、沼津千本松原沖における北条水軍との海戦で敗勢を覆すほどの抜群の手柄をたて、武田勝頼公から賞賛された武将でした。

ここまで話をつなげてくれば、もうお解かりかと思いますが、私は、向橋の「むかい」は向井兵庫の「むかい」に関わるものだと思っております。海賊の大将向井兵庫は、当目砦を拠点として、直属の海賊のほか、遠目地下の久保山水軍なども配下とし、西からの脅威、徳川軍と戦ったと思われます。

松尾書店版の書籍によると、「向井兵庫は、遠目で徳川の家来石川又四郎により殺された」としており、これも十分にありうることだとも考えられます(ただし、拙著『安倍七騎』では、石川又四郎によって殺されたのは、背史に基づいて須藤左門としました)。

向橋は、昭和51年3月に竣工の橋ですが、小字かなにかに基づいて命名されたものと思われます。

もうひとつ――、向橋の上手に架かる古橋は「御見橋」(おんみはし)と呼ばれ、身分の高い武将がこの橋から何かを見たということでつけられた名前だと思われます。向井兵庫が戦の合い間合い間に、橋の下を流れる清流石脇川を行き来する鮎を日長眺めていたのかもしれません。

ちなみに、御見橋のあたりは、徳川軍と武田軍の激戦地で、「葭岬古戦場」(よしばなこせんじょう)と呼ばれているところです。葭岬の合戦については、『安倍七騎』の第十三章「反攻」で描きました。

向橋と御見橋――。
身近にある橋の名前の由来に思いを馳せるのも実に楽しいことであります。



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 向橋 / 背後は、遠目砦がたっていた殿山の山麓



 「向橋」と記されたプレート



 御見橋 



 「御見橋」と記されたプレート / 橋下を流れる石脇川は、かつては清流であった。



 「おんみはし」と記されたプレート



 殿山の西北麓 / かつて麓には「葭岬古戦場」と記された看板が立っていた。道路の横断歩道あたりが御見橋



 吉花橋の橋上から見た殿山 / 「吉花」(よしばな)は、「葭岬」(よしばな)が転訛したものだと想像できる。







  


Posted by 安倍七騎 at 23:01Comments(0)徒然

2008年06月14日

静岡歴史民俗研究会の講演会のこと(vol.49)

6月7日(土)は、前回のブログで触れたとおり「みなとの楽校」へ行きましたが、この日の午後に、静岡歴史民俗研究会(会長 望月茂氏)の講演会が、静岡市葵区のアイセル21であり、「みなとの楽校」のあとこちらへと駆けつけました。

この静岡歴史民俗研究会は、私が講演演壇に立つにあたり、はじめて機会を設けてくださった会であり、思い出浅からぬ会であります。

さて、6月7日の講演会は、文化人類学研究者である嶋田進先生(望月会長のご兄弟)のお話で、「コトバから白鬚・サルタヒコを解く」と題したもので、わが国における民族的信仰のルーツは、韓国にあるといった話でした。

それは、韓国語の読みから転じて「白鬚」「猿田彦」について考えると言ったものでしたが、安倍・藁科川筋に白鬚神社が多いということもあり、先生のお話は大変興味深く拝聴いたしました。

お話の内容については差し控えますが、改めて言葉(その読み、あるいは、漢字のなりたち)の妙さを実感させるものでした。

拙著『安倍七騎』でも地名の謂われについても触れましたが、これは、拙著のそれにも通じるものでした。



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 演壇に立つ嶋田先生



 さまざまな質問や意見も出され、熱心さが伝わってきました。





  


Posted by 安倍七騎 at 23:34Comments(0)催事

2008年06月09日

初の青空講演会 「みなとの楽校」(vol.48)

6月7日(土)、静岡県庁港湾局、芦川港湾整備室長様のお招きで、三保松原海岸へ行ってきました。これは、国、県、市などの港湾行政に携わる方々の親睦を図るイベントで、地引網、バーベキュー、浜清掃を行うといったものでしたが、私の講演会もそのイベントのうちのひとつに入れていただきました。題して「みなとの楽校ミニ講演会 戦国時代の清水湊」 。

三保松原海岸は、伊豆半島が良く見えるところです。そこで、今回の講演はどのようにしようか? ということでつらつらと考えたわけですが、せっかくの屋外講演会なので、話の途中で指を差し、「あそこが、○○のあったところです」などとやれたらなぁ……、と思い、戦国時代の清水湊の様子のほか、対北条の水軍基地「清水湊」と対比さるかたちで、西伊豆にあった北条水軍の基地についてもなるべく触れるようにしました。

しかし、この日は晴れたものの、あいにく湿度が高くて講演で触れた土肥や西伊豆田子、雲見などは、三保松原海岸からは見ることができませんでした。

それでも、角(かど)港湾局長様をはじめ、ご来場の皆様には熱心に私の話を聴いただき、また質問も出していただき、とても嬉しく思いました。

今回は、初の屋外での講演会ということで、屋外ではパワーポイントは使えないけれども、講演の内容や場所によっては、受講者方々の目で直に“現場”を見てもらうというやり方もあるという発見がありました。角港湾局長様、芦川港湾整備室長様はじめ、皆様に感謝いたします。

誠にありがとうございました。 拝



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 「みなとの楽校ミニ講演会」は、羽衣の松のすぐ近くで行われました。「駿府静岡歴史楽会」もそうですが、“みなとの楽校”とは、とてもいいネーミングですね。



 天女でなくとも、ヒョイと上着をかけたくなるような枝ぶりです。



 ときに伊豆の北条水軍は、三保海岸に上陸し駿河に攻入ったといわれます。上陸後、松林に身を隠しながら、標的に向かって忍び寄る北条水軍の動きが目に浮かびます。


  


Posted by 安倍七騎 at 23:02Comments(0)催事

2008年06月05日

静岡茶  聖一国師からマッケンジー夫妻まで(vol.47)

先日、森竹敬浩さんという方から、氏が書かれた『世界に静岡茶を売った男 清水港から初の直輸出 海野孝三郎伝』という書籍をいただきました。

書籍名にある海野孝三郎氏の先祖を辿ると、『安倍七騎』の冒頭部で出てくる安倍大蔵元真(書籍には、「海野元真」と表記)であると、同書籍に記されていました。また、その末裔海野弥兵衛(やひょうえ)と、これも拙著に出てくる朝倉在重が、江戸期に徳川将軍家への献上茶の管理を任されていたということも書かれていました。

『安倍七騎』では、聖一国師が、中国(当時は宋)からお茶の種を持ち帰り、これが静岡茶の源となさしめたと記しましたが、安倍七騎に関わる人たちとその末裔は、お茶の発展に深くかかわっているということがわかりました。

さて、明治期から大正期にかけ活躍した海野孝三郎(1852(嘉永5)~1927(昭和2))の偉業は数々ありますが、その代表的なものとして、

・粗悪な日本茶(明治期、お茶に着色を施したものや、柳や桑などの葉が混合されたものなどが輸出されていた)を排除し、国際貿易に太刀打ちできる日本茶の輸出に尽力したこと。
・それに伴い、日本茶の高品質化が世界に認められたこと。
・国内輸送港にすぎなかった清水港を横浜港のように国際貿易港となるよう働きかけ、清水港から世界へ直輸出できるようにしたこと。

などが挙げられます。

さらに、時代が下って第二次世界大戦のころから戦後にかけて、静岡茶の貿易商にダンカン・マッケンジーという人がいました。ダンカン・マッケンジーという人は、清水港を拠点としたお茶の輸出でおおいに儲けました。また、このダンカン・マッケンジー氏の夫人は、茶業で儲けた財産を福祉のために寄付するなどし、静岡には大変なじみの深い人であります。

この夫妻が住んでいた邸が、静岡市駿河区に「旧マッケンジー邸」として現存しますが、先日(6月1日)、この旧マッケンジー邸で「アーウィン商会とマッケンジー夫妻の業績を讃える会」(主催:駿府静岡歴史楽会、静岡大学オールアバウティー研究会、静岡大学生涯学習教育センター)というイベントが催されました。

これは、静岡大学准教授小二田誠二先生がコーディネーターとなり、マッケンジー夫妻ゆかりの方々から夫妻に関わるエピソード(例えば、ふたりの馴れ初めのときの関係は、入院患者(のちの夫)と看護士(のちの妻)だったなど)を交えてのお話を聞くといったもので、書籍などで知るものよりもマッケンジー夫妻がより身近に感じるものとなりました。



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 旧マッケンジー邸の外観



 旧マッケンジー邸の二階から駿河湾を望む。昔は、防風林が広がっていたという。



 旧マッケンジー邸の階段



 グリル
 グリルをはじめ、オール電化の家だった。



 ダンカン・マッケンジーの会社「アーウィン商会」の看板。右から左に向かって読む。




  


Posted by 安倍七騎 at 18:15Comments(0)徒然