2008年06月18日
橋の名前に思いを馳せれば(vol.50)
私の住む焼津市浜当目には、向橋(むかいばし)という橋があります。『安倍七騎』執筆中にこの橋の名前を耳にして、
――ひょっとしたら……。
と、あることを思いました。
『安倍七騎』では、殿山にたつ遠目砦(焼津市浜当目)について触れましたが、向橋は、殿山山麓を流れる石脇川に架かる橋です。
遠目砦――。
この遠目砦は、武田氏による駿河統治の時代、水軍の城(海賊城)だった花沢城(焼津市花沢)の支城砦としての位置づけでした。そんなことから、遠目砦も水軍に関わる砦であったといわれております。
さて、この遠目砦を誰が宰領していたか?
一説によると、屋代正国(やしろ・まさくに)という武将が宰領していたといわれます。が、屋代正国は、花沢城の宰領者ともいわれ、その管轄下にあった遠目砦をも含めての宰領者ではなかったかと思われます。
話を「むかい」に戻します。
武田氏の家来に、向井兵庫という海賊の大将がおりました。『安倍七騎』にも、男映えのする好漢として描いた男です。
実際、向井兵庫は、沼津千本松原沖における北条水軍との海戦で敗勢を覆すほどの抜群の手柄をたて、武田勝頼公から賞賛された武将でした。
ここまで話をつなげてくれば、もうお解かりかと思いますが、私は、向橋の「むかい」は向井兵庫の「むかい」に関わるものだと思っております。海賊の大将向井兵庫は、当目砦を拠点として、直属の海賊のほか、遠目地下の久保山水軍なども配下とし、西からの脅威、徳川軍と戦ったと思われます。
松尾書店版の書籍によると、「向井兵庫は、遠目で徳川の家来石川又四郎により殺された」としており、これも十分にありうることだとも考えられます(ただし、拙著『安倍七騎』では、石川又四郎によって殺されたのは、背史に基づいて須藤左門としました)。
向橋は、昭和51年3月に竣工の橋ですが、小字かなにかに基づいて命名されたものと思われます。
もうひとつ――、向橋の上手に架かる古橋は「御見橋」(おんみはし)と呼ばれ、身分の高い武将がこの橋から何かを見たということでつけられた名前だと思われます。向井兵庫が戦の合い間合い間に、橋の下を流れる清流石脇川を行き来する鮎を日長眺めていたのかもしれません。
ちなみに、御見橋のあたりは、徳川軍と武田軍の激戦地で、「葭岬古戦場」(よしばなこせんじょう)と呼ばれているところです。葭岬の合戦については、『安倍七騎』の第十三章「反攻」で描きました。
向橋と御見橋――。
身近にある橋の名前の由来に思いを馳せるのも実に楽しいことであります。
↓ 見たい画像をクリックしてください。

向橋 / 背後は、遠目砦がたっていた殿山の山麓

「向橋」と記されたプレート

御見橋

「御見橋」と記されたプレート / 橋下を流れる石脇川は、かつては清流であった。

「おんみはし」と記されたプレート

殿山の西北麓 / かつて麓には「葭岬古戦場」と記された看板が立っていた。道路の横断歩道あたりが御見橋

吉花橋の橋上から見た殿山 / 「吉花」(よしばな)は、「葭岬」(よしばな)が転訛したものだと想像できる。
――ひょっとしたら……。
と、あることを思いました。
『安倍七騎』では、殿山にたつ遠目砦(焼津市浜当目)について触れましたが、向橋は、殿山山麓を流れる石脇川に架かる橋です。
遠目砦――。
この遠目砦は、武田氏による駿河統治の時代、水軍の城(海賊城)だった花沢城(焼津市花沢)の支城砦としての位置づけでした。そんなことから、遠目砦も水軍に関わる砦であったといわれております。
さて、この遠目砦を誰が宰領していたか?
一説によると、屋代正国(やしろ・まさくに)という武将が宰領していたといわれます。が、屋代正国は、花沢城の宰領者ともいわれ、その管轄下にあった遠目砦をも含めての宰領者ではなかったかと思われます。
話を「むかい」に戻します。
武田氏の家来に、向井兵庫という海賊の大将がおりました。『安倍七騎』にも、男映えのする好漢として描いた男です。
実際、向井兵庫は、沼津千本松原沖における北条水軍との海戦で敗勢を覆すほどの抜群の手柄をたて、武田勝頼公から賞賛された武将でした。
ここまで話をつなげてくれば、もうお解かりかと思いますが、私は、向橋の「むかい」は向井兵庫の「むかい」に関わるものだと思っております。海賊の大将向井兵庫は、当目砦を拠点として、直属の海賊のほか、遠目地下の久保山水軍なども配下とし、西からの脅威、徳川軍と戦ったと思われます。
松尾書店版の書籍によると、「向井兵庫は、遠目で徳川の家来石川又四郎により殺された」としており、これも十分にありうることだとも考えられます(ただし、拙著『安倍七騎』では、石川又四郎によって殺されたのは、背史に基づいて須藤左門としました)。
向橋は、昭和51年3月に竣工の橋ですが、小字かなにかに基づいて命名されたものと思われます。
もうひとつ――、向橋の上手に架かる古橋は「御見橋」(おんみはし)と呼ばれ、身分の高い武将がこの橋から何かを見たということでつけられた名前だと思われます。向井兵庫が戦の合い間合い間に、橋の下を流れる清流石脇川を行き来する鮎を日長眺めていたのかもしれません。
ちなみに、御見橋のあたりは、徳川軍と武田軍の激戦地で、「葭岬古戦場」(よしばなこせんじょう)と呼ばれているところです。葭岬の合戦については、『安倍七騎』の第十三章「反攻」で描きました。
向橋と御見橋――。
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山神考―yamagami-koh― (vol.236)
小説 友任哀史 ―ともどう・あいし― (vol.232)
浪人坂のお話など(vol.231)
寒くなりましたですな(vol.227)
橋本新大阪市長のいう“独裁者”(vol.226)
福島県の四倉ふれあい市民会議さん来静(vol.225)
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Posted by 安倍七騎 at 23:01│Comments(0)
│徒然
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