2009年05月24日
「嗚呼、瀬田の橋はもう過ぎたか?・・・」(vol.126)
映画『影武者』でのワンシーン。
駕籠の引き戸をツツと開ける山県昌景(大滝秀治)に向かって、空ろな武田信玄(仲代達矢)が標記の科白を吐く。
場所は、寒風が吹き抜ける三州寒原峠でのこと。
病身の信玄、夢は枯野を駆けめぐる―。
にわかに信玄、その身を駕籠から乗り出すと、
「見ろ! 京が見える!! 今一押し、我が御旗を京に立てよ!!」
と叫んで53年の生涯を閉じるのであった。
明日、私は上洛し、約一週間滞在することになる。
新型インフルエンザに罹らぬよう気をつけねば。
駕籠の引き戸をツツと開ける山県昌景(大滝秀治)に向かって、空ろな武田信玄(仲代達矢)が標記の科白を吐く。
場所は、寒風が吹き抜ける三州寒原峠でのこと。
病身の信玄、夢は枯野を駆けめぐる―。
にわかに信玄、その身を駕籠から乗り出すと、
「見ろ! 京が見える!! 今一押し、我が御旗を京に立てよ!!」
と叫んで53年の生涯を閉じるのであった。
明日、私は上洛し、約一週間滞在することになる。
新型インフルエンザに罹らぬよう気をつけねば。
2009年05月17日
静岡県民俗学会(vol.125)
「安倍奥の旋律」のときに知り合った岩崎敦史さんのお誘いをうけ、本日、静岡県民俗学会の今年度総会・大会へ参加した。
総会の後には、「会津の狩猟伝承」と題した石川純一郎氏のお話をうかがった。
猟のために山にはいるときは、猟師は水垢離(みずごり)をしたり、また入山前の数日間は夫婦同衾を避けたりなど、山の神に対するうやまいの儀式を欠かさず行ったという。
これには、山の神に対する敬いの念とは別に、獣とはいえ、命を奪って生計をたてねばならぬという、猟師の(―負い目的な―)心象風景を垣間見たような気がした。
また、山を、山の神の聖域であるととらえ、一切「里の言葉」を使わなかった(山中では、専ら「山の言葉」を使った)。経験不足の勢子(せこ)などが、山中でうっかり「里の言葉」を使うと、猟師はさっさと山を下りてしまったらしい。
「吠え留め」「待ち撃ち」「山立ち」「熊荒(くまあれ)」など、狩猟にまつわる言葉が新鮮に感じられた。
また、研究報告会では、「道の記憶―旧楊原地区の人々と道との関わり―」と題し、神田朝美氏が演台に立たれた。
沼津市の我入道海岸付近に、かつて楊原(やなぎはら)と呼ばれる地域があった。発表は、そこをはしっていた塩場土手(しょばどて)といわれる旧い道を、地域の古老からの聞き取りによって推定をおこなったもの。
“地域住民がもつ塩場土手についての記憶をたどった”ということから、「道の記憶」というタイトルをつけられたと思うが、このタイトルに詩的なものを感じた。
また、『安倍七騎』執筆準備のため、奥藁科の「坂本姫の顔洗い場」探しを行っていたころを思い出した。
もう一つ、大村和男氏の「静岡民具学事始め―内田武志の再評価―」と題した研究発表があった。
内田武志は、関東大震災にあって静岡に移住してきた人で、民具や方言などを研究した人。こと民具についていえば、四歳ちがいの妹ハチが描いた民具図は、貴重な史料といえるだろう。なにやら真似て作りたくなってくる。
あとで、隣席の富山昭先生(当会理事・常葉大学講師)が教えてくれたことだが、大村氏は葵区平野の人だという。
「平野の大村さんといえば・・・」と私が言うと、富山先生は「ええ」と頷かれた。
安倍奥には、戦国時代のころ、大村彦六郎という強兵(つわもの)がおり(大村氏の在所は戦国時代は油島、江戸時代になってからは平野)、彼が安倍七騎のひとりだったとも言われている。
この会の会長は、富山先生と共著で、『安倍川』を出版された中村羊一郎先生(静岡産業大学教授)。
おふたりは、「(出版は)もう三十年以上も前になるなぁ」と当時を回想しておられた。
今、私のてもとには、「続 駿河つれづれぐさ ―戦国時代の生き方のこと― >68<」と題して中村先生が書かれた安倍七騎にまつわる記事(7~8年前の中日新聞連載記事)がある。
総会の後には、「会津の狩猟伝承」と題した石川純一郎氏のお話をうかがった。
猟のために山にはいるときは、猟師は水垢離(みずごり)をしたり、また入山前の数日間は夫婦同衾を避けたりなど、山の神に対するうやまいの儀式を欠かさず行ったという。
これには、山の神に対する敬いの念とは別に、獣とはいえ、命を奪って生計をたてねばならぬという、猟師の(―負い目的な―)心象風景を垣間見たような気がした。
また、山を、山の神の聖域であるととらえ、一切「里の言葉」を使わなかった(山中では、専ら「山の言葉」を使った)。経験不足の勢子(せこ)などが、山中でうっかり「里の言葉」を使うと、猟師はさっさと山を下りてしまったらしい。
「吠え留め」「待ち撃ち」「山立ち」「熊荒(くまあれ)」など、狩猟にまつわる言葉が新鮮に感じられた。
また、研究報告会では、「道の記憶―旧楊原地区の人々と道との関わり―」と題し、神田朝美氏が演台に立たれた。
沼津市の我入道海岸付近に、かつて楊原(やなぎはら)と呼ばれる地域があった。発表は、そこをはしっていた塩場土手(しょばどて)といわれる旧い道を、地域の古老からの聞き取りによって推定をおこなったもの。
“地域住民がもつ塩場土手についての記憶をたどった”ということから、「道の記憶」というタイトルをつけられたと思うが、このタイトルに詩的なものを感じた。
また、『安倍七騎』執筆準備のため、奥藁科の「坂本姫の顔洗い場」探しを行っていたころを思い出した。
もう一つ、大村和男氏の「静岡民具学事始め―内田武志の再評価―」と題した研究発表があった。
内田武志は、関東大震災にあって静岡に移住してきた人で、民具や方言などを研究した人。こと民具についていえば、四歳ちがいの妹ハチが描いた民具図は、貴重な史料といえるだろう。なにやら真似て作りたくなってくる。
あとで、隣席の富山昭先生(当会理事・常葉大学講師)が教えてくれたことだが、大村氏は葵区平野の人だという。
「平野の大村さんといえば・・・」と私が言うと、富山先生は「ええ」と頷かれた。
安倍奥には、戦国時代のころ、大村彦六郎という強兵(つわもの)がおり(大村氏の在所は戦国時代は油島、江戸時代になってからは平野)、彼が安倍七騎のひとりだったとも言われている。
この会の会長は、富山先生と共著で、『安倍川』を出版された中村羊一郎先生(静岡産業大学教授)。
おふたりは、「(出版は)もう三十年以上も前になるなぁ」と当時を回想しておられた。
今、私のてもとには、「続 駿河つれづれぐさ ―戦国時代の生き方のこと― >68<」と題して中村先生が書かれた安倍七騎にまつわる記事(7~8年前の中日新聞連載記事)がある。
2009年05月10日
2009年05月07日
2009年05月06日
山女の骨酒といえば・・・、(vol.122)
山女の骨酒を出してくれるお店がある。
藤枝市岡部の「つたの屋」と云うお店で(電話:054-667-1554)、親方が滅法の釣り好き。“仕入れ”と称しては渓流に出かけ、山女を釣ってはお店で料るのだ。このお店で出す「山女の骨酒」は一尾丸ごとお酒に漬けたもので、三枚におろした、いわゆる「ナカウチ」を使ったものとは異なる。
このお店では、ほかに「山女の背ごし」と云うお刺身を出すが、これは小振りの山女がオススメ。

正座でジーッ・・・。
これは「つたの屋」の愛犬ハッピー。
初冬にプレゼントしたおざぶはすっかり薄汚れてしまった。
藤枝市岡部の「つたの屋」と云うお店で(電話:054-667-1554)、親方が滅法の釣り好き。“仕入れ”と称しては渓流に出かけ、山女を釣ってはお店で料るのだ。このお店で出す「山女の骨酒」は一尾丸ごとお酒に漬けたもので、三枚におろした、いわゆる「ナカウチ」を使ったものとは異なる。
このお店では、ほかに「山女の背ごし」と云うお刺身を出すが、これは小振りの山女がオススメ。
正座でジーッ・・・。
これは「つたの屋」の愛犬ハッピー。
初冬にプレゼントしたおざぶはすっかり薄汚れてしまった。
2009年05月04日
では一献(vol.121)
「安倍奥の旋律」も終わって、自宅に帰って一杯やりました。
ただ一杯やるだけでは無聊(―面白くない―)。
竹製キャンドル製作のときに一献用として岡部の矢崎さんのところから持ち帰った竹筒へ、純米酒を注ぎ込み―、それから、葵区柿島はエバーグリーンガーデンの望月さんご夫妻、静岡大学の平野先生が手間隙かけてじっくりと焼き上げた山女(やまめ)を入れて、人肌程度にぬくとめて「山女の骨酒」と洒落込みました。

こんな具合にね・・・。
ただ一杯やるだけでは無聊(―面白くない―)。
竹製キャンドル製作のときに一献用として岡部の矢崎さんのところから持ち帰った竹筒へ、純米酒を注ぎ込み―、それから、葵区柿島はエバーグリーンガーデンの望月さんご夫妻、静岡大学の平野先生が手間隙かけてじっくりと焼き上げた山女(やまめ)を入れて、人肌程度にぬくとめて「山女の骨酒」と洒落込みました。
こんな具合にね・・・。