2009年05月17日
静岡県民俗学会(vol.125)
「安倍奥の旋律」のときに知り合った岩崎敦史さんのお誘いをうけ、本日、静岡県民俗学会の今年度総会・大会へ参加した。
総会の後には、「会津の狩猟伝承」と題した石川純一郎氏のお話をうかがった。
猟のために山にはいるときは、猟師は水垢離(みずごり)をしたり、また入山前の数日間は夫婦同衾を避けたりなど、山の神に対するうやまいの儀式を欠かさず行ったという。
これには、山の神に対する敬いの念とは別に、獣とはいえ、命を奪って生計をたてねばならぬという、猟師の(―負い目的な―)心象風景を垣間見たような気がした。
また、山を、山の神の聖域であるととらえ、一切「里の言葉」を使わなかった(山中では、専ら「山の言葉」を使った)。経験不足の勢子(せこ)などが、山中でうっかり「里の言葉」を使うと、猟師はさっさと山を下りてしまったらしい。
「吠え留め」「待ち撃ち」「山立ち」「熊荒(くまあれ)」など、狩猟にまつわる言葉が新鮮に感じられた。
また、研究報告会では、「道の記憶―旧楊原地区の人々と道との関わり―」と題し、神田朝美氏が演台に立たれた。
沼津市の我入道海岸付近に、かつて楊原(やなぎはら)と呼ばれる地域があった。発表は、そこをはしっていた塩場土手(しょばどて)といわれる旧い道を、地域の古老からの聞き取りによって推定をおこなったもの。
“地域住民がもつ塩場土手についての記憶をたどった”ということから、「道の記憶」というタイトルをつけられたと思うが、このタイトルに詩的なものを感じた。
また、『安倍七騎』執筆準備のため、奥藁科の「坂本姫の顔洗い場」探しを行っていたころを思い出した。
もう一つ、大村和男氏の「静岡民具学事始め―内田武志の再評価―」と題した研究発表があった。
内田武志は、関東大震災にあって静岡に移住してきた人で、民具や方言などを研究した人。こと民具についていえば、四歳ちがいの妹ハチが描いた民具図は、貴重な史料といえるだろう。なにやら真似て作りたくなってくる。
あとで、隣席の富山昭先生(当会理事・常葉大学講師)が教えてくれたことだが、大村氏は葵区平野の人だという。
「平野の大村さんといえば・・・」と私が言うと、富山先生は「ええ」と頷かれた。
安倍奥には、戦国時代のころ、大村彦六郎という強兵(つわもの)がおり(大村氏の在所は戦国時代は油島、江戸時代になってからは平野)、彼が安倍七騎のひとりだったとも言われている。
この会の会長は、富山先生と共著で、『安倍川』を出版された中村羊一郎先生(静岡産業大学教授)。
おふたりは、「(出版は)もう三十年以上も前になるなぁ」と当時を回想しておられた。
今、私のてもとには、「続 駿河つれづれぐさ ―戦国時代の生き方のこと― >68<」と題して中村先生が書かれた安倍七騎にまつわる記事(7~8年前の中日新聞連載記事)がある。
総会の後には、「会津の狩猟伝承」と題した石川純一郎氏のお話をうかがった。
猟のために山にはいるときは、猟師は水垢離(みずごり)をしたり、また入山前の数日間は夫婦同衾を避けたりなど、山の神に対するうやまいの儀式を欠かさず行ったという。
これには、山の神に対する敬いの念とは別に、獣とはいえ、命を奪って生計をたてねばならぬという、猟師の(―負い目的な―)心象風景を垣間見たような気がした。
また、山を、山の神の聖域であるととらえ、一切「里の言葉」を使わなかった(山中では、専ら「山の言葉」を使った)。経験不足の勢子(せこ)などが、山中でうっかり「里の言葉」を使うと、猟師はさっさと山を下りてしまったらしい。
「吠え留め」「待ち撃ち」「山立ち」「熊荒(くまあれ)」など、狩猟にまつわる言葉が新鮮に感じられた。
また、研究報告会では、「道の記憶―旧楊原地区の人々と道との関わり―」と題し、神田朝美氏が演台に立たれた。
沼津市の我入道海岸付近に、かつて楊原(やなぎはら)と呼ばれる地域があった。発表は、そこをはしっていた塩場土手(しょばどて)といわれる旧い道を、地域の古老からの聞き取りによって推定をおこなったもの。
“地域住民がもつ塩場土手についての記憶をたどった”ということから、「道の記憶」というタイトルをつけられたと思うが、このタイトルに詩的なものを感じた。
また、『安倍七騎』執筆準備のため、奥藁科の「坂本姫の顔洗い場」探しを行っていたころを思い出した。
もう一つ、大村和男氏の「静岡民具学事始め―内田武志の再評価―」と題した研究発表があった。
内田武志は、関東大震災にあって静岡に移住してきた人で、民具や方言などを研究した人。こと民具についていえば、四歳ちがいの妹ハチが描いた民具図は、貴重な史料といえるだろう。なにやら真似て作りたくなってくる。
あとで、隣席の富山昭先生(当会理事・常葉大学講師)が教えてくれたことだが、大村氏は葵区平野の人だという。
「平野の大村さんといえば・・・」と私が言うと、富山先生は「ええ」と頷かれた。
安倍奥には、戦国時代のころ、大村彦六郎という強兵(つわもの)がおり(大村氏の在所は戦国時代は油島、江戸時代になってからは平野)、彼が安倍七騎のひとりだったとも言われている。
この会の会長は、富山先生と共著で、『安倍川』を出版された中村羊一郎先生(静岡産業大学教授)。
おふたりは、「(出版は)もう三十年以上も前になるなぁ」と当時を回想しておられた。
今、私のてもとには、「続 駿河つれづれぐさ ―戦国時代の生き方のこと― >68<」と題して中村先生が書かれた安倍七騎にまつわる記事(7~8年前の中日新聞連載記事)がある。