2008年06月05日

静岡茶  聖一国師からマッケンジー夫妻まで(vol.47)

先日、森竹敬浩さんという方から、氏が書かれた『世界に静岡茶を売った男 清水港から初の直輸出 海野孝三郎伝』という書籍をいただきました。

書籍名にある海野孝三郎氏の先祖を辿ると、『安倍七騎』の冒頭部で出てくる安倍大蔵元真(書籍には、「海野元真」と表記)であると、同書籍に記されていました。また、その末裔海野弥兵衛(やひょうえ)と、これも拙著に出てくる朝倉在重が、江戸期に徳川将軍家への献上茶の管理を任されていたということも書かれていました。

『安倍七騎』では、聖一国師が、中国(当時は宋)からお茶の種を持ち帰り、これが静岡茶の源となさしめたと記しましたが、安倍七騎に関わる人たちとその末裔は、お茶の発展に深くかかわっているということがわかりました。

さて、明治期から大正期にかけ活躍した海野孝三郎(1852(嘉永5)~1927(昭和2))の偉業は数々ありますが、その代表的なものとして、

・粗悪な日本茶(明治期、お茶に着色を施したものや、柳や桑などの葉が混合されたものなどが輸出されていた)を排除し、国際貿易に太刀打ちできる日本茶の輸出に尽力したこと。
・それに伴い、日本茶の高品質化が世界に認められたこと。
・国内輸送港にすぎなかった清水港を横浜港のように国際貿易港となるよう働きかけ、清水港から世界へ直輸出できるようにしたこと。

などが挙げられます。

さらに、時代が下って第二次世界大戦のころから戦後にかけて、静岡茶の貿易商にダンカン・マッケンジーという人がいました。ダンカン・マッケンジーという人は、清水港を拠点としたお茶の輸出でおおいに儲けました。また、このダンカン・マッケンジー氏の夫人は、茶業で儲けた財産を福祉のために寄付するなどし、静岡には大変なじみの深い人であります。

この夫妻が住んでいた邸が、静岡市駿河区に「旧マッケンジー邸」として現存しますが、先日(6月1日)、この旧マッケンジー邸で「アーウィン商会とマッケンジー夫妻の業績を讃える会」(主催:駿府静岡歴史楽会、静岡大学オールアバウティー研究会、静岡大学生涯学習教育センター)というイベントが催されました。

これは、静岡大学准教授小二田誠二先生がコーディネーターとなり、マッケンジー夫妻ゆかりの方々から夫妻に関わるエピソード(例えば、ふたりの馴れ初めのときの関係は、入院患者(のちの夫)と看護士(のちの妻)だったなど)を交えてのお話を聞くといったもので、書籍などで知るものよりもマッケンジー夫妻がより身近に感じるものとなりました。



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静岡茶  聖一国師からマッケンジー夫妻まで(vol.47)

 旧マッケンジー邸の外観

静岡茶  聖一国師からマッケンジー夫妻まで(vol.47)

 旧マッケンジー邸の二階から駿河湾を望む。昔は、防風林が広がっていたという。

静岡茶  聖一国師からマッケンジー夫妻まで(vol.47)

 旧マッケンジー邸の階段

静岡茶  聖一国師からマッケンジー夫妻まで(vol.47)

 グリル
 グリルをはじめ、オール電化の家だった。

静岡茶  聖一国師からマッケンジー夫妻まで(vol.47)

 ダンカン・マッケンジーの会社「アーウィン商会」の看板。右から左に向かって読む。






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Posted by 安倍七騎 at 18:15│Comments(0)徒然
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