2008年08月11日
大石五郎右衛門大施餓鬼会(vol.61)
8月10日(日)、戦国時代、安倍七騎のひとりとして活躍した大石五郎右衛門の大施餓鬼会が、葵区上落合で行われました。今回は、その様子を画像で紹介します。
↓ 画像をクリックしてください。

大施餓鬼会の会場となる上落合公民館

公民館の隣(現在茶畑)が五郎右衛門最期の地「立ン場」
「立ン場」のいわれについては、当ホームページ「地名に残る安倍七騎」を参照。

大施餓鬼会の様子。
長妻田の曹源寺のご住職がお経を唱える。
読経ののち、ご住職は、私が『安倍七騎』の著者であるとみなさんに紹介してくれ、
『安倍七騎』を読んで郷土の歴史に触れてほしいと言ってくれました。

大施餓鬼会の様子。
祭壇の四隅に竹を配置し、前後の竹同士をひもで結ぶ。
竹には、白いお札が結ってあり、それには、東西南北を守る四天王の名が記されている。

焼香をする上落合集落の人々。焼香にはお米、刻んだ茄子が使われる。

お米に竹の剣を突き刺し、それを色とりどりの旗(紙製)を飾る。
大石五郎右衛門や無縁仏の諸霊がお米を食べに来、やがて剣先から昇天して成仏するという。

大施餓鬼会で使われたお札。

お札を結った竹を畑に挿すと、作物に虫がつかない。
大施餓鬼会に参加して――感想――
法要には、15名ほどの上落合集落の方が参加しました。
初対面にもかかわらず、私が公民館に入ると、スリッパを出してくれる人、折り畳み椅子を出してくれる人などと、おもてなしの気持ちをいっぱい感じました。ある書籍によると、上落合から前科者が出たことがなく、これがこの集落の自慢のひとつになっているそうですが、みなさんの振る舞いなどからもそれが頷ける気ようながしました。
さて、参集のみなさん、どなたも一見60歳以上の方たちばかりでした。ふと、400年以上も続くこの伝統行事は、この先何年つづくのだろうかと不安になりました。
これは、7月26日、静岡新聞の記事の見出し――
中山間地定住促進へ 静岡市 職員から意見募集
そして、8月7日の記事の見出し――
中山間地域総合計画策定へ 静岡市 限界集落の実情聞き取り 「生活やっと、人手不足」
「 」内の言は、葵区玉川地区の口仙俣集落(上落合のとなり)の人の言葉です。
この大施餓鬼会に参加して、中山間地域の過疎化と高齢化を肌で感じました。
過疎化と高齢化――。このふたつの問題は待ったなしです。今動きださねば、中山間地に息づく伝統や文化が消えてしまうことは確かです。
さて、大石五郎右衛門のことについて、拙著『安倍七騎』にそって触れます。
柿島村名主朝倉在重は、柿島村の支村、上落合村に住む大石五郎右衛門を常々快く思っていませんでした。というのも、五郎右衛門は、圧政を布く朝倉在重に反発し、村人を助ける側にたった人物でした。
そのころ、甲斐の武田氏が駿河に勢力を伸ばしてきます。大石は6人の同士とともに武田に与し、安倍七騎としてその名を轟かせます。朝倉氏は、大石五郎右衛門に介入策を施したのでしょう。在重は妹を五郎右衛門に嫁がせます。それによって、武田領柿島村を治める朝倉氏の勢力をより盤石なものにしていきました。
やがて、武田氏の勢力が衰え、駿河に徳川氏の力が及んできます。義弟が武田の勇士であってはまずいと考えた在重は、弓の名人である白鳥玄角に命じて五郎右衛門を殺してしまいます。
この事件があってから、柿島村では農作物の発育がよくなくなったり、疫病がはやるなどの災難がつづきました。これを、五郎右衛門の祟りだと朝倉氏をはじめ柿島村の村人は思うようになります。
以降、上落合では、毎年8月7日に大石五郎右衛門の大施餓鬼会を行うようになりました(最近では8月7日前後の日曜日に行われます)。
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大施餓鬼会の会場となる上落合公民館
公民館の隣(現在茶畑)が五郎右衛門最期の地「立ン場」
「立ン場」のいわれについては、当ホームページ「地名に残る安倍七騎」を参照。
大施餓鬼会の様子。
長妻田の曹源寺のご住職がお経を唱える。
読経ののち、ご住職は、私が『安倍七騎』の著者であるとみなさんに紹介してくれ、
『安倍七騎』を読んで郷土の歴史に触れてほしいと言ってくれました。
大施餓鬼会の様子。
祭壇の四隅に竹を配置し、前後の竹同士をひもで結ぶ。
竹には、白いお札が結ってあり、それには、東西南北を守る四天王の名が記されている。
焼香をする上落合集落の人々。焼香にはお米、刻んだ茄子が使われる。
お米に竹の剣を突き刺し、それを色とりどりの旗(紙製)を飾る。
大石五郎右衛門や無縁仏の諸霊がお米を食べに来、やがて剣先から昇天して成仏するという。
大施餓鬼会で使われたお札。
お札を結った竹を畑に挿すと、作物に虫がつかない。
大施餓鬼会に参加して――感想――
法要には、15名ほどの上落合集落の方が参加しました。
初対面にもかかわらず、私が公民館に入ると、スリッパを出してくれる人、折り畳み椅子を出してくれる人などと、おもてなしの気持ちをいっぱい感じました。ある書籍によると、上落合から前科者が出たことがなく、これがこの集落の自慢のひとつになっているそうですが、みなさんの振る舞いなどからもそれが頷ける気ようながしました。
さて、参集のみなさん、どなたも一見60歳以上の方たちばかりでした。ふと、400年以上も続くこの伝統行事は、この先何年つづくのだろうかと不安になりました。
これは、7月26日、静岡新聞の記事の見出し――
中山間地定住促進へ 静岡市 職員から意見募集
そして、8月7日の記事の見出し――
中山間地域総合計画策定へ 静岡市 限界集落の実情聞き取り 「生活やっと、人手不足」
「 」内の言は、葵区玉川地区の口仙俣集落(上落合のとなり)の人の言葉です。
この大施餓鬼会に参加して、中山間地域の過疎化と高齢化を肌で感じました。
過疎化と高齢化――。このふたつの問題は待ったなしです。今動きださねば、中山間地に息づく伝統や文化が消えてしまうことは確かです。
さて、大石五郎右衛門のことについて、拙著『安倍七騎』にそって触れます。
柿島村名主朝倉在重は、柿島村の支村、上落合村に住む大石五郎右衛門を常々快く思っていませんでした。というのも、五郎右衛門は、圧政を布く朝倉在重に反発し、村人を助ける側にたった人物でした。
そのころ、甲斐の武田氏が駿河に勢力を伸ばしてきます。大石は6人の同士とともに武田に与し、安倍七騎としてその名を轟かせます。朝倉氏は、大石五郎右衛門に介入策を施したのでしょう。在重は妹を五郎右衛門に嫁がせます。それによって、武田領柿島村を治める朝倉氏の勢力をより盤石なものにしていきました。
やがて、武田氏の勢力が衰え、駿河に徳川氏の力が及んできます。義弟が武田の勇士であってはまずいと考えた在重は、弓の名人である白鳥玄角に命じて五郎右衛門を殺してしまいます。
この事件があってから、柿島村では農作物の発育がよくなくなったり、疫病がはやるなどの災難がつづきました。これを、五郎右衛門の祟りだと朝倉氏をはじめ柿島村の村人は思うようになります。
以降、上落合では、毎年8月7日に大石五郎右衛門の大施餓鬼会を行うようになりました(最近では8月7日前後の日曜日に行われます)。