2008年08月06日

安倍七騎の夏休み――其の弐――(vol.60)

上落合で、魚釣り、大石五郎右衛門のお墓参りを終えたあと、私達は中河内川の流れに沿って車を進めました。県道27号線(井川湖御幸線、通称:「安倍街道」)を南下してゆきます。

油野(☆「ゆの」あるいは「ゆんの」)、栗駒を経て、長妻田までやってきました。ここは、安倍七騎の時代、この界隈をおさめていた朝倉氏の屋敷のあったところです。朝倉氏は、昭和11年にこの地を離れましたが(一族は、駿河区稲川と、藤枝市に在)、朝倉氏代々のご先祖さまは長妻田の曹源寺に祀られております。

この曹源寺さんは、今年で開創500年を迎えられました。安倍奥の歴史をすっと見続けてきた、由緒あるお寺です。このお寺にまつわる不思議なお話がありますので、それをご紹介しましょう。

―― その昔、曹源寺の山門改修に併せて仁王さん我王さんを安置したころのこと。夜な夜な山門が大きく揺れるほどの大きな泣き声が聞こえたそうな。これに村人は気味悪がって誰も近づかなかった。が、ある晩、お寺の小坊主さんが山門をそっと覗いてみると、「井川へ帰りたい、井川へ帰りたい」と、仁王さん、我王さんが北(井川の方面)に向かって泣き叫んでいたそうな。両手を振り上げ、両足を踏ん張って、大粒の涙をながしながら――。実はこの仁王さんと我王さんは井川生まれで、ふるさとを恋しがって泣き叫んでいたそうな。毎晩の大泣きに困った村人たちは、井川竜泉院の方丈様に供養してもらったところ、以降この真夜中の騒動は治まったそうな。――


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 力強くも愛嬌のあるお姿の仁王さんと我王さん。挿話は大正7年のできごと。

曹源寺の奥様から冷たいお茶などをふるまっていただき、広々とした本堂でしばし一服。自然の馨に包まれていると、山や谷に沿って心地よい風が吹いてきます。遊びつかれた私たちにとって、ここは楽園――いや、楽土といった方がいいかな――となりました。



 冷たいお茶のほか、甘くて美味しい揚げ饅頭は、私たち七人に滋養をもたらしました。

曹源寺で疲れを取りのぞいた私たちは、中河内川(玉川)筋を離れ、安倍川本流筋へと入ります。次は昼食をとるために「真富士の里」(葵区平野)へと向かいました。がしかし、ここへ到着したころは大雨――。食事をとりながらしばし“雨宿り兼作戦会議”となりました。会議の結果、止むを得ずいくつかの予定を端折ることになりましたが、この雨もそう悪いことではなかったように思います。小一時間ほど皆で卓を囲んでいると、やがて、霧が行き来する見月山(1046.9m)が私たちの目の前にあらわれました。

私がよく「真富士の里」へ立ち寄るのは、この見月山が良く見えるからで、黒澤明監督の映画『乱』の冒頭シーン――騎馬武者が数騎、緑豊かな山並みの尾根筋に居並んでいるといったもの――と重ね見ることができるからです。が、この日の見月山は、濃淡を効かせた墨で描いた、壮大な画をみるような風情のものでした。



 突然降りだした大粒の雨。



 雨上がりにたちのぼる霧は、龍のようにも見えました。

さて、その後、私たちは俵峰の望月庄太郎さん宅を訪ねました(俵峰の望月氏は、安倍七騎のひとり)。望月さん宅の玄関で挨拶をすると、「さあ、家のなかへ」と招いてくれました。私たちは、突然の訪問でもあり玄関先で辞すこととしました。

雨天で行程の変更が生じましたが、“まずは現地へ”という私たちの目的は達成できたと思いました。以上、「安倍七騎の夏休み」と題して7月27日の行程を、vol.59とvol.60で紹介してきました。けどこれをただの休日の1コマで終わらせるわけにはいきません。この1コマはあくまでもフィールドワーク。第一歩です。私たちのささやかなアクションが積み重なってゆき、やがてなにか実を結べば――たとえば、静岡市がおし進めている「中山間地域総合振興」など――と思っています。

前号でも触れましたが、安倍奥は“屋根のない博物館”なのです。

☆ 「油野」には、油野温泉があります。これは「湯」が「油」に変化したもので、「油山温泉」「油島」の「油」も、もとは「湯」を用いていました。これらはいずれも――玉川を含めた――安倍川本流筋の地名です。
藁科川筋には「湯島」という地名があります。江戸時代に書かれた地誌によると、「藁科川筋に湯島という地名があるので、安倍川本流筋の方を湯島とはせずに油島とした」とあります。私は、安倍川本流筋の方が折れて「油」を用いたということに、静岡人の気質を思わせるような面白みを感じます。
  


Posted by 安倍七騎 at 12:01Comments(0)徒然