2009年01月24日

奥池ヶ谷城跡(vol.102)

玉川は、中河内川ぞいにはしる安倍街道の脇に、かつて城があった。

今は城山(じょうやま)とよばれ、その痕跡を地名に見ることができる。
城山の名からお察しのとおり、山城であった。
高さは140mで、かつて曲輪があったと思われるところは、頂上付近に4段の平場(段)がある。
さて、この城。その名は奥池ヶ谷城―。
かつて、今川範国の家臣友任氏の城で、永禄のころ武田氏によって滅亡されたといわれている。
1月18日にこの城山に登ったが、かつて井戸であったところでは、いまだに冬の早朝には、水蒸気が立ち上るらしい。よって、地元の人は「霧噴き井戸」などと呼んでいる。

ちなみに、この城山があるところの字は長妻田と呼ばれる。
その地名のいわれは、この城が落城した際、多くの城兵が死んだので、七箇所に葬った。
それが「七塚」で、「七塚村」となって、時代が経るにしたがって、「長津俣村」さらには「長妻田村」となったといわれている。




城山遠景



城山の頂へ向かう道



冬の早朝に水蒸気があがる場所。かつては城の井戸だった。



城山9合目あたりで撮った風景。

遠景の山(―中河内川対岸に位置する―)の山中に沢がある。
奥池ヶ谷城が落城した際、友任氏の妻は幼児を抱き、乳母をともなってその沢まで逃げてきた。
落ち延びて一安心と思ったか、沢の畔にある大石の陰で布を敷き飲食したがついには追手に見つかり、幼児とともに沢の淵に身を投げて死んだ。爾来、その淵を「赤子淵」(或いは「なれやいの淵」)、沢を「布沢(ぬのんざわ)」、大石を「世帯石」とよぶようになった。

本日の安倍奥講座はこれまで。
一同解散!



  


Posted by 安倍七騎 at 18:34Comments(0)徒然