2009年10月25日

戦国安倍奥哀史(vol.146)

奥池ヶ谷城のこと

その昔、安倍奥の山間に、奥池ヶ谷城という山城があった。
当時この城は、甲斐の武田氏から駿河防衛の前線基地という役割を持った城で、その城主を池ヶ谷友任と云った。

ときは、永禄3年(1560)、駿河国主今川治部大輔義元が、織田上総介信長によって斃れると、今川による駿河統治は揺らぎはじめた。
機は熟した、駿河を攻むるべし――、甲斐の虎武田信玄は、駿河に乱入した。
信玄は、手始めに奥池ヶ谷城に夜襲をかけた。

衰勢を帯びた主家今川からの援軍は、頼るべきもなし――。
草深い安倍奥に佇む小城である。落城は、火を見るより明らかであった。

それでも、池ヶ谷の家来どもは我が身を盾とし、あるじとその一族を守った。
その甲斐あって、池ヶ谷友任とその家族は、城の裏手から脱出に成功した。が、目前には碧流を湛えた中河内川と四囲を塞ぐ山々。たった一本、城下を南北に貫く安倍街道には武田兵が充満し、いまだ如何しがたき窮状だ。
このままでは武田の目は眩ませまい――。
友任は、嬰児を抱えた妻に姥と手練の家来をつけて、中河内川対岸の向谷山に落ち延びたのを見届けると、自らは嫡子と残兵を伴って、中河内川を上へ上へと遡った。

この逃げる友任父子とその家来に、追撃の手がのびる。やがて、兵がひとり斃れ、ふたり斃れし、ついに嫡子は奮闘空しく栗駒の森の中で落命。友任も支流の仙俣川の川筋まで落ち延びたが、悲観に苛まれて広海戸と云う処で自殺した(『駿河志料(一)』には「討取られた」とある)。

片や、向谷山の山中に逃げた友任の妻らの一行――。
沢畔の大石の陰で布を敷き、そこで飲食をしていたがついに敵に見つかり、妻は辱めを受けまいと嬰児を抱いたまま淵に身を投げて死んだ。

爾来、この哀史にまつわる地名ができた。
妻らが布を敷いて一時をしのいだことから、沢の名を「布沢」、隠れた石を「世帯石」と云い、妻が嬰児を抱いて沈んだ淵(―― 一説には、姥が嬰児を淵に放った淵 ――)を、「赤子淵」または、「馴合(なれやい)淵」と呼んだ。布沢の上には、この妻に従って来た者のお墓があるといわれている。
さらには、友任の嫡子が死んだところを「御曹司の森」、手負いの城兵たちが身を投げた奥池ヶ谷城付近の淵のことを、「遭難淵」と呼ぶようになった。

参考:『玉川村誌』『駿河志料(一)』『曹洞宗 松尾山曹源寺 開創五百年史』『梶原景時の生涯 安倍川周辺の史話と伝説五十篇』など


  


Posted by 安倍七騎 at 12:50Comments(0)徒然