2008年03月17日
久能山界隈逍遥(vol.29)
3月2日(日)、この日は穏かな日和でした。この日は特段これといった用事がありませんでした。
そこで、私の「さて、今日はどこへ行くか?」というときのための“場所のストック”を覗くと、そのなかに「久能のいちご狩り」がありましたので――、行ってみることにしました。いちご狩りは小学校のとき以来なので、かれこれ30年ほど行っていません。それで、どうせ行くなら、どこかとセットでということで、東照宮にも行こうということになりました(この日のスタートが早ければ、温泉施設も備えた「いちご狩り」と「駿府夢ひろば」という手もありましたが、“ゆっくり出”でしたので、これに決定!)。
で――、いちご狩りは、横山園という、割と東照宮への登り口に近いところにしました。この農園では「章姫」という品種と、「紅ほっぺ」という品種のいちごの採取が可能です。全体的には、この界隈のいちご農園では「章姫」が多いようです。この日は「紅ほっぺ」という可愛らしい名前の方に舌鼓をならすことにしました。小学生のころに来たときは、「時間内にどれだけ食べられるか!?」というアホな挑戦をしたなぁと思いつつ、制限時間の30分間をゆっくりと堪能しました。このいちご狩りは5月までできるようで、さすが静岡の観光名所だということを再認識しました。

品種は、かわいい名前の「べにほっぺ」です。

さて、つぎに久能山東照宮――。
ここへは、小学校4年生のときの社会見学以来でしたが、このときはロープウェイを利用したので、駿河湾側からてくてくと石段(1159段。「イチ・イチ・ゴ・ク・ロー」で覚えた)を登っていくのは、幼稚園の社会見学以来となりました。



この久能山東照宮は、徳川家康公の廟ということで有名ですが、拙著『安倍七騎』のなかでこの場所は、久能寺城ということで登場しました(「久能城」「久能山城」とするものもある)。
中世、山上に建つ寺などは要塞的な使われ方もされたようで(静岡市葵区にあった建穂寺(たきょうじ)も)、久能山山頂へと続く石段を登っていくと、そのことがわかるような気がします。なにせ、頂に達すると、遠く伊豆西海岸までも一望でき、駿河湾を往来する船舶(敵方の北条の水軍の軍船も含む)の往来が手に取るようにわかる場所です。

永禄11年12月、甲斐の武田信玄は、駿河国主今川氏真を遠州へ駆逐すると、この地にいち早く目をつけ、山頂にあった「補陀落山 久能寺(ふだらくさん くのうじ)」を有渡郡北矢部(清水区北矢部)に移したあとに改造し城としたという歴史もあります。そして、この城は、「水軍の城」としての機能を果たしたようです(それを裏付ける地名として、この近くに「カイゾクグラ」という小字があります)。改修された社はとっても華やかでした。また、併設の博物館には歴代徳川氏の鎧や刀などが蔵され、今後の参考(―― おっ! 2作目をヤル気かッ?! ――)となりました。
そこで、私の「さて、今日はどこへ行くか?」というときのための“場所のストック”を覗くと、そのなかに「久能のいちご狩り」がありましたので――、行ってみることにしました。いちご狩りは小学校のとき以来なので、かれこれ30年ほど行っていません。それで、どうせ行くなら、どこかとセットでということで、東照宮にも行こうということになりました(この日のスタートが早ければ、温泉施設も備えた「いちご狩り」と「駿府夢ひろば」という手もありましたが、“ゆっくり出”でしたので、これに決定!)。
で――、いちご狩りは、横山園という、割と東照宮への登り口に近いところにしました。この農園では「章姫」という品種と、「紅ほっぺ」という品種のいちごの採取が可能です。全体的には、この界隈のいちご農園では「章姫」が多いようです。この日は「紅ほっぺ」という可愛らしい名前の方に舌鼓をならすことにしました。小学生のころに来たときは、「時間内にどれだけ食べられるか!?」というアホな挑戦をしたなぁと思いつつ、制限時間の30分間をゆっくりと堪能しました。このいちご狩りは5月までできるようで、さすが静岡の観光名所だということを再認識しました。
品種は、かわいい名前の「べにほっぺ」です。
さて、つぎに久能山東照宮――。
ここへは、小学校4年生のときの社会見学以来でしたが、このときはロープウェイを利用したので、駿河湾側からてくてくと石段(1159段。「イチ・イチ・ゴ・ク・ロー」で覚えた)を登っていくのは、幼稚園の社会見学以来となりました。
この久能山東照宮は、徳川家康公の廟ということで有名ですが、拙著『安倍七騎』のなかでこの場所は、久能寺城ということで登場しました(「久能城」「久能山城」とするものもある)。
中世、山上に建つ寺などは要塞的な使われ方もされたようで(静岡市葵区にあった建穂寺(たきょうじ)も)、久能山山頂へと続く石段を登っていくと、そのことがわかるような気がします。なにせ、頂に達すると、遠く伊豆西海岸までも一望でき、駿河湾を往来する船舶(敵方の北条の水軍の軍船も含む)の往来が手に取るようにわかる場所です。
永禄11年12月、甲斐の武田信玄は、駿河国主今川氏真を遠州へ駆逐すると、この地にいち早く目をつけ、山頂にあった「補陀落山 久能寺(ふだらくさん くのうじ)」を有渡郡北矢部(清水区北矢部)に移したあとに改造し城としたという歴史もあります。そして、この城は、「水軍の城」としての機能を果たしたようです(それを裏付ける地名として、この近くに「カイゾクグラ」という小字があります)。改修された社はとっても華やかでした。また、併設の博物館には歴代徳川氏の鎧や刀などが蔵され、今後の参考(―― おっ! 2作目をヤル気かッ?! ――)となりました。