2009年03月30日
突先山山頂整備(vol.114)
vol.105、vol.106では、葵区坂本地区の郷土歴史保存・地域環境整備に取り組む「坂本愛郷の会」の活動についてふれた。
vol.106では突先山(1022m)山頂へつづく道の整備について記したが、今回はその続きの活動である。
3月29日(日)、花見の季節というのに2月下旬の寒さである。
この日奥藁科では氷が張っていた。
午前8時、大山(坂本の背後にある山で、突先山へも通じる山)のゲート集合。
今日は、突先山山頂にベンチやたて看板を設置するとのこと。
↓ 画像をクリックすると拡大されます。

木製のベンチを肩にになって頂を目指すのは一苦労。


防腐剤も塗った。
「これで10年は持つだろうよ」と―。

地上8mの高さだ。
まさに山人。梯子などをつかわずに杉の木に登って枝打ちを行う。
山で鍛え抜かれた技といっていい。

枝打ちで山頂の景色が開けてきた。
かつて『安倍七騎』の取材で、栃沢の出雲武さん曰く、
「千柄山(ちがらやま・突先山の旧称)の頂からは七カ国が見わたせた」といわれた。
製紙会社によって植えられた杉により本来の風景が遮られているが、本来のそれに近づいた。

枝打ちにより、安倍川本流左岸にそびえる真富士山の頂が見えてきた。台形の頂がそれ。その奥に富士山の頂がうっすらと見えるが、おわかりいただけるだろうか。

三保半島が見えてきた。
かつて清水湊に入る船は、この突先山の「突先」を目印として入港したという。

こちらは木の伐採により寺島集落(藁科川筋)が見えた。

この日、空き缶や牛乳瓶が転がっていた。
山頂で風光を愛でつつ喉をうるおし、あげくにポイ捨てとは自分勝手にもほどがある!

みなさま、お疲れさまでした。
帰途、車中で同行してくれた川嶋さんと話した。
坂本集落の方々の話口調は、じつにまろやかで優しい。
これは明らかに市街地のそれとは異とするものである。
静岡の方言について詳しい富山昭先生は、奥藁科の方言には都人(京都人)の名残りがあるといわれたが(―栃沢の米沢官女しかりで、かつて京都から落ち延びて奥藁科に住まった―)、坂本集落で暮らす人々もその流れを受け継いでいるのかもしれない。
vol.106では突先山(1022m)山頂へつづく道の整備について記したが、今回はその続きの活動である。
3月29日(日)、花見の季節というのに2月下旬の寒さである。
この日奥藁科では氷が張っていた。
午前8時、大山(坂本の背後にある山で、突先山へも通じる山)のゲート集合。
今日は、突先山山頂にベンチやたて看板を設置するとのこと。
↓ 画像をクリックすると拡大されます。
木製のベンチを肩にになって頂を目指すのは一苦労。
防腐剤も塗った。
「これで10年は持つだろうよ」と―。
地上8mの高さだ。
まさに山人。梯子などをつかわずに杉の木に登って枝打ちを行う。
山で鍛え抜かれた技といっていい。
枝打ちで山頂の景色が開けてきた。
かつて『安倍七騎』の取材で、栃沢の出雲武さん曰く、
「千柄山(ちがらやま・突先山の旧称)の頂からは七カ国が見わたせた」といわれた。
製紙会社によって植えられた杉により本来の風景が遮られているが、本来のそれに近づいた。
枝打ちにより、安倍川本流左岸にそびえる真富士山の頂が見えてきた。台形の頂がそれ。その奥に富士山の頂がうっすらと見えるが、おわかりいただけるだろうか。
三保半島が見えてきた。
かつて清水湊に入る船は、この突先山の「突先」を目印として入港したという。
こちらは木の伐採により寺島集落(藁科川筋)が見えた。
この日、空き缶や牛乳瓶が転がっていた。
山頂で風光を愛でつつ喉をうるおし、あげくにポイ捨てとは自分勝手にもほどがある!
みなさま、お疲れさまでした。
帰途、車中で同行してくれた川嶋さんと話した。
坂本集落の方々の話口調は、じつにまろやかで優しい。
これは明らかに市街地のそれとは異とするものである。
静岡の方言について詳しい富山昭先生は、奥藁科の方言には都人(京都人)の名残りがあるといわれたが(―栃沢の米沢官女しかりで、かつて京都から落ち延びて奥藁科に住まった―)、坂本集落で暮らす人々もその流れを受け継いでいるのかもしれない。