2008年08月11日
大石五郎右衛門大施餓鬼会(vol.61)
8月10日(日)、戦国時代、安倍七騎のひとりとして活躍した大石五郎右衛門の大施餓鬼会が、葵区上落合で行われました。今回は、その様子を画像で紹介します。
↓ 画像をクリックしてください。

大施餓鬼会の会場となる上落合公民館

公民館の隣(現在茶畑)が五郎右衛門最期の地「立ン場」
「立ン場」のいわれについては、当ホームページ「地名に残る安倍七騎」を参照。

大施餓鬼会の様子。
長妻田の曹源寺のご住職がお経を唱える。
読経ののち、ご住職は、私が『安倍七騎』の著者であるとみなさんに紹介してくれ、
『安倍七騎』を読んで郷土の歴史に触れてほしいと言ってくれました。

大施餓鬼会の様子。
祭壇の四隅に竹を配置し、前後の竹同士をひもで結ぶ。
竹には、白いお札が結ってあり、それには、東西南北を守る四天王の名が記されている。

焼香をする上落合集落の人々。焼香にはお米、刻んだ茄子が使われる。

お米に竹の剣を突き刺し、それを色とりどりの旗(紙製)を飾る。
大石五郎右衛門や無縁仏の諸霊がお米を食べに来、やがて剣先から昇天して成仏するという。

大施餓鬼会で使われたお札。

お札を結った竹を畑に挿すと、作物に虫がつかない。
大施餓鬼会に参加して――感想――
法要には、15名ほどの上落合集落の方が参加しました。
初対面にもかかわらず、私が公民館に入ると、スリッパを出してくれる人、折り畳み椅子を出してくれる人などと、おもてなしの気持ちをいっぱい感じました。ある書籍によると、上落合から前科者が出たことがなく、これがこの集落の自慢のひとつになっているそうですが、みなさんの振る舞いなどからもそれが頷ける気ようながしました。
さて、参集のみなさん、どなたも一見60歳以上の方たちばかりでした。ふと、400年以上も続くこの伝統行事は、この先何年つづくのだろうかと不安になりました。
これは、7月26日、静岡新聞の記事の見出し――
中山間地定住促進へ 静岡市 職員から意見募集
そして、8月7日の記事の見出し――
中山間地域総合計画策定へ 静岡市 限界集落の実情聞き取り 「生活やっと、人手不足」
「 」内の言は、葵区玉川地区の口仙俣集落(上落合のとなり)の人の言葉です。
この大施餓鬼会に参加して、中山間地域の過疎化と高齢化を肌で感じました。
過疎化と高齢化――。このふたつの問題は待ったなしです。今動きださねば、中山間地に息づく伝統や文化が消えてしまうことは確かです。
さて、大石五郎右衛門のことについて、拙著『安倍七騎』にそって触れます。
柿島村名主朝倉在重は、柿島村の支村、上落合村に住む大石五郎右衛門を常々快く思っていませんでした。というのも、五郎右衛門は、圧政を布く朝倉在重に反発し、村人を助ける側にたった人物でした。
そのころ、甲斐の武田氏が駿河に勢力を伸ばしてきます。大石は6人の同士とともに武田に与し、安倍七騎としてその名を轟かせます。朝倉氏は、大石五郎右衛門に介入策を施したのでしょう。在重は妹を五郎右衛門に嫁がせます。それによって、武田領柿島村を治める朝倉氏の勢力をより盤石なものにしていきました。
やがて、武田氏の勢力が衰え、駿河に徳川氏の力が及んできます。義弟が武田の勇士であってはまずいと考えた在重は、弓の名人である白鳥玄角に命じて五郎右衛門を殺してしまいます。
この事件があってから、柿島村では農作物の発育がよくなくなったり、疫病がはやるなどの災難がつづきました。これを、五郎右衛門の祟りだと朝倉氏をはじめ柿島村の村人は思うようになります。
以降、上落合では、毎年8月7日に大石五郎右衛門の大施餓鬼会を行うようになりました(最近では8月7日前後の日曜日に行われます)。
↓ 画像をクリックしてください。
大施餓鬼会の会場となる上落合公民館
公民館の隣(現在茶畑)が五郎右衛門最期の地「立ン場」
「立ン場」のいわれについては、当ホームページ「地名に残る安倍七騎」を参照。
大施餓鬼会の様子。
長妻田の曹源寺のご住職がお経を唱える。
読経ののち、ご住職は、私が『安倍七騎』の著者であるとみなさんに紹介してくれ、
『安倍七騎』を読んで郷土の歴史に触れてほしいと言ってくれました。
大施餓鬼会の様子。
祭壇の四隅に竹を配置し、前後の竹同士をひもで結ぶ。
竹には、白いお札が結ってあり、それには、東西南北を守る四天王の名が記されている。
焼香をする上落合集落の人々。焼香にはお米、刻んだ茄子が使われる。
お米に竹の剣を突き刺し、それを色とりどりの旗(紙製)を飾る。
大石五郎右衛門や無縁仏の諸霊がお米を食べに来、やがて剣先から昇天して成仏するという。
大施餓鬼会で使われたお札。
お札を結った竹を畑に挿すと、作物に虫がつかない。
大施餓鬼会に参加して――感想――
法要には、15名ほどの上落合集落の方が参加しました。
初対面にもかかわらず、私が公民館に入ると、スリッパを出してくれる人、折り畳み椅子を出してくれる人などと、おもてなしの気持ちをいっぱい感じました。ある書籍によると、上落合から前科者が出たことがなく、これがこの集落の自慢のひとつになっているそうですが、みなさんの振る舞いなどからもそれが頷ける気ようながしました。
さて、参集のみなさん、どなたも一見60歳以上の方たちばかりでした。ふと、400年以上も続くこの伝統行事は、この先何年つづくのだろうかと不安になりました。
これは、7月26日、静岡新聞の記事の見出し――
中山間地定住促進へ 静岡市 職員から意見募集
そして、8月7日の記事の見出し――
中山間地域総合計画策定へ 静岡市 限界集落の実情聞き取り 「生活やっと、人手不足」
「 」内の言は、葵区玉川地区の口仙俣集落(上落合のとなり)の人の言葉です。
この大施餓鬼会に参加して、中山間地域の過疎化と高齢化を肌で感じました。
過疎化と高齢化――。このふたつの問題は待ったなしです。今動きださねば、中山間地に息づく伝統や文化が消えてしまうことは確かです。
さて、大石五郎右衛門のことについて、拙著『安倍七騎』にそって触れます。
柿島村名主朝倉在重は、柿島村の支村、上落合村に住む大石五郎右衛門を常々快く思っていませんでした。というのも、五郎右衛門は、圧政を布く朝倉在重に反発し、村人を助ける側にたった人物でした。
そのころ、甲斐の武田氏が駿河に勢力を伸ばしてきます。大石は6人の同士とともに武田に与し、安倍七騎としてその名を轟かせます。朝倉氏は、大石五郎右衛門に介入策を施したのでしょう。在重は妹を五郎右衛門に嫁がせます。それによって、武田領柿島村を治める朝倉氏の勢力をより盤石なものにしていきました。
やがて、武田氏の勢力が衰え、駿河に徳川氏の力が及んできます。義弟が武田の勇士であってはまずいと考えた在重は、弓の名人である白鳥玄角に命じて五郎右衛門を殺してしまいます。
この事件があってから、柿島村では農作物の発育がよくなくなったり、疫病がはやるなどの災難がつづきました。これを、五郎右衛門の祟りだと朝倉氏をはじめ柿島村の村人は思うようになります。
以降、上落合では、毎年8月7日に大石五郎右衛門の大施餓鬼会を行うようになりました(最近では8月7日前後の日曜日に行われます)。
2008年07月22日
西田文郎先生講演会のこと(vol.57)
7月14日(月)、藤枝で行われた西田文郎先生の講演会に行ってきました。
西田文郎先生は、ADA能力開発分析協会の会長で、これまでかず多くの起業家やスポーツ選手(たとえば、オリンピック日本代表選手、桑田真澄投手などのプロ野球選手、大橋秀行・川島勝重などのボクシング世界チャンピオンなど)を成功に導いた方です。とにかく、この先生の指導を受けると、マジックにかかったように成功に導かれる――。
これは、右脳のしくみや潜在意識について知り、先生の指導のもとにトレーニングを行うことで、成功に導かれるというものでした。
また、この講演会では、先生の指導を受けた人が壇上にあがり、受講者30人が思いついた単語をいうと、それをいちから順次30の単語を答えるといったことも披露されました。これは、右脳でイメージして記憶する方法だそうですが、1時間ほどのトレーニングで可能だそうです。
先生の教室が島田市のバラの丘公園の近くにあるそうで(――詳しい住所はわかりませんが――)、あんなスゴイものを目のあたりにしては、いちど行かねばと思いました。
また「西田塾 日本アホ会」という、他人の喜ぶことばかり考え実行するという楽しい会もあり、その活動状況なども話されました。
相手を喜ばす力――。
これが、運命を支配する能力だそうで、これは、「情けは人のためならず」という諺にも通じるのかなとも思いました。
くわしくお知りになりたい方は、西田先生の著書(『No.1理論』『ツキを超える成功力』など)や、ホームページをご覧いただければと思います。きっと為になるはずです。
西田文郎先生は、ADA能力開発分析協会の会長で、これまでかず多くの起業家やスポーツ選手(たとえば、オリンピック日本代表選手、桑田真澄投手などのプロ野球選手、大橋秀行・川島勝重などのボクシング世界チャンピオンなど)を成功に導いた方です。とにかく、この先生の指導を受けると、マジックにかかったように成功に導かれる――。
これは、右脳のしくみや潜在意識について知り、先生の指導のもとにトレーニングを行うことで、成功に導かれるというものでした。
また、この講演会では、先生の指導を受けた人が壇上にあがり、受講者30人が思いついた単語をいうと、それをいちから順次30の単語を答えるといったことも披露されました。これは、右脳でイメージして記憶する方法だそうですが、1時間ほどのトレーニングで可能だそうです。
先生の教室が島田市のバラの丘公園の近くにあるそうで(――詳しい住所はわかりませんが――)、あんなスゴイものを目のあたりにしては、いちど行かねばと思いました。
また「西田塾 日本アホ会」という、他人の喜ぶことばかり考え実行するという楽しい会もあり、その活動状況なども話されました。
相手を喜ばす力――。
これが、運命を支配する能力だそうで、これは、「情けは人のためならず」という諺にも通じるのかなとも思いました。
くわしくお知りになりたい方は、西田先生の著書(『No.1理論』『ツキを超える成功力』など)や、ホームページをご覧いただければと思います。きっと為になるはずです。
2008年07月12日
チガイがわかる男の・・・(vol.55)
6月29日(日)、浮月楼(静岡市葵区)にて、久保山酒店(静岡市清水区)主催の「銘酒発掘の会」がありました。
この会は、全国各地の蔵元があつまり、蔵元自慢の銘酒を味わうといったものでした。今年でこの催しは十三回目を迎えたとのことですが、第一回目の参加者はたったの8人だったそうです。しかし、回を重ねるごとに人が集り、この日は会場に200人~300人の“酒豪”が集まりました。
“酒豪”といいましたが、かくなる私も酒豪かというとそうではなく、下戸(げこ)の部類に入ります。が、わりとお酒は大好きな方です。ただし、さかずき一杯で酔ってしまいます。
余話――。
こんな、“酒好きだが酒に弱い”という自分のことを、拙著『安倍七騎』では、杉山小兵衛にかぶせて「第二章 首なし小兵衛」の序盤部分を書きました。
それはともかく、アルコールに弱い私は、酒のせいで体内の血が騒ぎだすと、すぐにインターバルに入ります。会場をあとに外の空気を思いっきり吸いにいきます。
浮月楼は大きな庭園を構えているので、一呼吸おきに庭に出るというのに好都合でした。
さすが、徳川慶喜公ゆかりの静岡屈指の名園。そぼ降る雨の庭園を眺め、いにしえの事物に想いを巡らすと、「ダバダ~・・・、淺羽克典42歳――。 チガイがわかる男の、ネスカフェ ○○ ブレンド・・・」なんて気分になってきました。が、お酒の方は、チガイがわかる前に感覚がマヒしてしまいます。
県都静岡の繁華街に、このような自然空間があるということは、奇跡に近いことだと思います。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!

銘酒発掘の会の様子

浮月楼のお料理

庭園の様子1

庭園の様子2

庭園の様子3
この会は、全国各地の蔵元があつまり、蔵元自慢の銘酒を味わうといったものでした。今年でこの催しは十三回目を迎えたとのことですが、第一回目の参加者はたったの8人だったそうです。しかし、回を重ねるごとに人が集り、この日は会場に200人~300人の“酒豪”が集まりました。
“酒豪”といいましたが、かくなる私も酒豪かというとそうではなく、下戸(げこ)の部類に入ります。が、わりとお酒は大好きな方です。ただし、さかずき一杯で酔ってしまいます。
余話――。
こんな、“酒好きだが酒に弱い”という自分のことを、拙著『安倍七騎』では、杉山小兵衛にかぶせて「第二章 首なし小兵衛」の序盤部分を書きました。
それはともかく、アルコールに弱い私は、酒のせいで体内の血が騒ぎだすと、すぐにインターバルに入ります。会場をあとに外の空気を思いっきり吸いにいきます。
浮月楼は大きな庭園を構えているので、一呼吸おきに庭に出るというのに好都合でした。
さすが、徳川慶喜公ゆかりの静岡屈指の名園。そぼ降る雨の庭園を眺め、いにしえの事物に想いを巡らすと、「ダバダ~・・・、淺羽克典42歳――。 チガイがわかる男の、ネスカフェ ○○ ブレンド・・・」なんて気分になってきました。が、お酒の方は、チガイがわかる前に感覚がマヒしてしまいます。
県都静岡の繁華街に、このような自然空間があるということは、奇跡に近いことだと思います。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!
銘酒発掘の会の様子
浮月楼のお料理
庭園の様子1
庭園の様子2
庭園の様子3
2008年07月07日
作品づくりの愉しみ(vol.54)
6月29日(日)、静岡市藁科生涯学習センター(旧藁科公民館)にて、作家の諸田玲子先生の講演会がありました。これは、第二次大戦中に藁科に疎開していた中勘助氏を記念した、「中勘介文学記念館記念事業」として行われたもので、演題は、「作品づくりの愉しみ」といったものでした。
この、作品づくりの愉しみというと、作家さんは書きたいものを書いて商売になるなら、それだけで十分よいではないかと思われがちですが、どうも出版社の意向で、書きたいものが書けないといったところが実情のようです。
例えば、諸田先生の場合、汚職事件が横行していたり、キレル子供がいるなどという点で、今の時代と似ている平安時代を書きたいという願望はあるけれど、出版社は、江戸時代の、しかも濡れ場をいれた作品を書かせたいということで、結局それを書かざるを得ないそうです。
また、連載を8本(1本につき、原稿が6~70枚)を書くとなれば、寝る間もなく、つらい稼業だそうです。
それでも、心血注いで出来上がった作品が立派な賞を受賞したとなれば、“作品づくりの愉しみ”ということになることでしょう。
諸田先生は『奸婦にあらず』(新田次郎賞)ほか、数々の歴史小説を書かれている方で、色々な作家の方との交流も多く、うちわけ話なども聞くことが出来ました。
たとえば、『あかね雲』を書かれた山本一力先生は、投稿したボツ作品がダンボール一杯になるほどあるそうですが、そこは売れればしめたもの――、その埋もれていた作品に、(――実力のついた我が手で――)手直しを加え、再び世に出すのだそうです。
そういったことでは、かつて自分の書いた作品の再生も“作品づくりの愉しみ”の一つになるような気がします。
作品がボツになっても諦めずに書き続ける――。
まさに、継続は力なりで、“続けることができる”という才能が、小説家には必要不可欠なのかもしれません。
あと、中勘助作品について触れますが――、
2003年の岩波文庫九十周年時に、読者アンケートをとったところ、1位:『こころ』(夏目漱石著)、2位:『坊ちゃん』(夏目漱石著)、3位:『吾輩は猫である』(夏目漱石著)、同3位:『銀の匙(さじ)』(中勘助著)であったそうで、知名度では夏目漱石には劣るものの、中勘助先生は、文学愛好者からは多くの指示を受けている作家さんであったということを知りました。
中勘助文学記念館「杓子庵」が静岡市葵区新間にあります。ここには、中先生の遺品や作品が展示してあるそうで、今度出かけてみようと思います。
* 今回は、主催者側の意向により写真撮影ができなかったので、画像の掲載はできませんでした。
m( _ _ )m 画像は、次回に乞うご期待・・・。
この、作品づくりの愉しみというと、作家さんは書きたいものを書いて商売になるなら、それだけで十分よいではないかと思われがちですが、どうも出版社の意向で、書きたいものが書けないといったところが実情のようです。
例えば、諸田先生の場合、汚職事件が横行していたり、キレル子供がいるなどという点で、今の時代と似ている平安時代を書きたいという願望はあるけれど、出版社は、江戸時代の、しかも濡れ場をいれた作品を書かせたいということで、結局それを書かざるを得ないそうです。
また、連載を8本(1本につき、原稿が6~70枚)を書くとなれば、寝る間もなく、つらい稼業だそうです。
それでも、心血注いで出来上がった作品が立派な賞を受賞したとなれば、“作品づくりの愉しみ”ということになることでしょう。
諸田先生は『奸婦にあらず』(新田次郎賞)ほか、数々の歴史小説を書かれている方で、色々な作家の方との交流も多く、うちわけ話なども聞くことが出来ました。
たとえば、『あかね雲』を書かれた山本一力先生は、投稿したボツ作品がダンボール一杯になるほどあるそうですが、そこは売れればしめたもの――、その埋もれていた作品に、(――実力のついた我が手で――)手直しを加え、再び世に出すのだそうです。
そういったことでは、かつて自分の書いた作品の再生も“作品づくりの愉しみ”の一つになるような気がします。
作品がボツになっても諦めずに書き続ける――。
まさに、継続は力なりで、“続けることができる”という才能が、小説家には必要不可欠なのかもしれません。
あと、中勘助作品について触れますが――、
2003年の岩波文庫九十周年時に、読者アンケートをとったところ、1位:『こころ』(夏目漱石著)、2位:『坊ちゃん』(夏目漱石著)、3位:『吾輩は猫である』(夏目漱石著)、同3位:『銀の匙(さじ)』(中勘助著)であったそうで、知名度では夏目漱石には劣るものの、中勘助先生は、文学愛好者からは多くの指示を受けている作家さんであったということを知りました。
中勘助文学記念館「杓子庵」が静岡市葵区新間にあります。ここには、中先生の遺品や作品が展示してあるそうで、今度出かけてみようと思います。
* 今回は、主催者側の意向により写真撮影ができなかったので、画像の掲載はできませんでした。
m( _ _ )m 画像は、次回に乞うご期待・・・。
2008年07月02日
こういう映画もいいねぇ……(vol.53)
前回では、「雨の日の娯楽は映画や娯楽などの室内ものがいいですね」なんて話から、らせん劇場のことなどに触れました。依然として梅雨明けはまだということで、今回は映画の話をひとつ――。
6月28日(土)、グランシップ(静岡市駿河区)にて、「熊坂出(くまさか・いづる)を眺める ― 熊坂出監督と平野雅彦氏とのアフタートーク ―」という、熊坂出監督映画の上映と、そのあと、熊坂監督と平野雅彦氏(平野先生のHPへは安倍七騎ホームページ「リンク集」からアクセスできます)、静岡県文化財団の望月真也氏によるアフタートークといった贅沢な企画がありました。熊坂監督は、第58回ベルリン国際映画最優秀新人賞を受賞され、今最も注目されている新鋭監督のひとりです。
今回上映された映画は、新人賞を受賞した『パーク アンド ラブホテル』の予告編をふくめたショート作品(『コーヒーとミルク』『海月陽(くらげび)』『音のもと ― OTO NO MOTO―』『聞いてみよう』『影を切る男』)が上映されました。さすが実力者で、どの作品も視聴者へうったえるインパクトの強い作品でした。そのなかでも、特に私のお気に入りは、『影を切る男』という作品でした。
砂浜に斧が突き刺さっている――。
その斧が、ゆっくりと青空に向かって伸びたあと、それを手にした男の影に「グサッ」突き刺さる。男は、何度も何度も、自分の影を斧で切る。
影を、切る!? そんな莫迦な……。
男は、切り得ぬ自分の何を断ち切ろうとしているのか……。
だんだん激しくなる息づかい――。
それでも、男はやめない。
ふと、男は少年の笑い声に気付いて振り返る。
そこには、自分の影と無邪気に遊ぶ少年がいる。
その少年は……、そして、男はその後……。
と言った具合に展開するものでした。
作り手から、視聴者にポンと何かを投げかけられてあとはご自由に――といった、実に観念的な映画でした。
この映画の印象を強くしたものの要因のひとつに、音声の入れ方、使い方がありました。それは、砂に突き刺す斧の音、波の音、男の荒い息づかい、少年の笑い声などといった音声だけであたこと。“音ありの無声映画”といったところでした。小説でいえば、「……」だけで綴る物語――。この描写の仕方は、映画のもつ大きな武器だなと思いました。
15分ほどの短い映画で、普通の映画館では見ることはできないと思いますがオススメの一本です。みなさんも見る機会があったら是非!!
↓ 画像をクリックしてくださいネ!

左から、望月真也氏、熊坂出監督、平野雅彦氏。
映画だけに限らず、小説などを含めた全ての作品づくりの参考となるお話もありました。
追 記
おかげさまで、安倍七騎ホームページへの“着陣”(「アクセス」と読む)が、2000騎を越えました。一騎当千のみなさんのアクセスに奮い立ち、ここまでやってこれました。今後も拙著『安倍七騎』に関わる話、普段の生活で思ったこと感じたこと、各種イベントのことなどを書き続けていきたいと思います。これからも、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
6月28日(土)、グランシップ(静岡市駿河区)にて、「熊坂出(くまさか・いづる)を眺める ― 熊坂出監督と平野雅彦氏とのアフタートーク ―」という、熊坂出監督映画の上映と、そのあと、熊坂監督と平野雅彦氏(平野先生のHPへは安倍七騎ホームページ「リンク集」からアクセスできます)、静岡県文化財団の望月真也氏によるアフタートークといった贅沢な企画がありました。熊坂監督は、第58回ベルリン国際映画最優秀新人賞を受賞され、今最も注目されている新鋭監督のひとりです。
今回上映された映画は、新人賞を受賞した『パーク アンド ラブホテル』の予告編をふくめたショート作品(『コーヒーとミルク』『海月陽(くらげび)』『音のもと ― OTO NO MOTO―』『聞いてみよう』『影を切る男』)が上映されました。さすが実力者で、どの作品も視聴者へうったえるインパクトの強い作品でした。そのなかでも、特に私のお気に入りは、『影を切る男』という作品でした。
砂浜に斧が突き刺さっている――。
その斧が、ゆっくりと青空に向かって伸びたあと、それを手にした男の影に「グサッ」突き刺さる。男は、何度も何度も、自分の影を斧で切る。
影を、切る!? そんな莫迦な……。
男は、切り得ぬ自分の何を断ち切ろうとしているのか……。
だんだん激しくなる息づかい――。
それでも、男はやめない。
ふと、男は少年の笑い声に気付いて振り返る。
そこには、自分の影と無邪気に遊ぶ少年がいる。
その少年は……、そして、男はその後……。
と言った具合に展開するものでした。
作り手から、視聴者にポンと何かを投げかけられてあとはご自由に――といった、実に観念的な映画でした。
この映画の印象を強くしたものの要因のひとつに、音声の入れ方、使い方がありました。それは、砂に突き刺す斧の音、波の音、男の荒い息づかい、少年の笑い声などといった音声だけであたこと。“音ありの無声映画”といったところでした。小説でいえば、「……」だけで綴る物語――。この描写の仕方は、映画のもつ大きな武器だなと思いました。
15分ほどの短い映画で、普通の映画館では見ることはできないと思いますがオススメの一本です。みなさんも見る機会があったら是非!!
↓ 画像をクリックしてくださいネ!
左から、望月真也氏、熊坂出監督、平野雅彦氏。
映画だけに限らず、小説などを含めた全ての作品づくりの参考となるお話もありました。
追 記
おかげさまで、安倍七騎ホームページへの“着陣”(「アクセス」と読む)が、2000騎を越えました。一騎当千のみなさんのアクセスに奮い立ち、ここまでやってこれました。今後も拙著『安倍七騎』に関わる話、普段の生活で思ったこと感じたこと、各種イベントのことなどを書き続けていきたいと思います。これからも、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
2008年06月27日
劇団らせん劇場の「王様と私っち」のことなど(vol.52)
6月22日(日)は、そぼ降る雨の日でした。こんな雨の休日の娯楽には、映画や観劇など、室内ものがいいですね。
この日、寿町倉庫(静岡市駿河区寿町)では、劇団らせん劇場の「王様と私っち」がかかっていました。
とある国で、何百年も脈々と続く王の継承――。
しかし、必ずしも真の継承者が王を継承しているわけではない。
さて、この物語である。6畳ほどの畳間に、「鈴木さん」を名乗る一家4人が暮らしている。その衣装は、王冠を冠した西洋の王族の衣装。そう、彼らこそが傍流に追いやられた正統な王家一族なのである。そして、この正統王家に忠実に仕える、「王家鈴木さんち」の隣の家に住む山田さん。果たして、鈴木さんちの御家再興はなるのか?その行く末はいかに・・・。
「とある国」としながらもちぐはぐな和洋折衷の設定、王族と大衆のギャップが面白かったです。
らせん劇場は、今作品で「act.64」だそうです。安倍七騎一作で“産みの苦しみ”を実感した私にとって(“楽しい苦しみ”ではあるのですが――)、64という数字は実に驚異です。
↓ 画像をクリックしてください。

これだもん・・・。
追 記
らせん劇場の団長の都築はじめさんや、劇団員の四季妙雅さんとは、れいの伊太利亭で知り合った方々です。
昨日、私は伊太利亭に行きました。
安倍七騎をはじめとした安倍奥の伝説を安倍奥の地域振興に役立てることはできないかということで、 「すろーらいふ」編集者の原田さやかさんと、静岡市役所の今川俊一さんとで話し合うためでした。
静岡市葵区坂本のことのように(ブログvol.41の、「その後の坂本姫の顔洗い場」参照)、また安倍七騎が地域振興のお役にたてる機会がやってくるかもしれません。
よーし、頑張るぞ!!
この日、寿町倉庫(静岡市駿河区寿町)では、劇団らせん劇場の「王様と私っち」がかかっていました。
とある国で、何百年も脈々と続く王の継承――。
しかし、必ずしも真の継承者が王を継承しているわけではない。
さて、この物語である。6畳ほどの畳間に、「鈴木さん」を名乗る一家4人が暮らしている。その衣装は、王冠を冠した西洋の王族の衣装。そう、彼らこそが傍流に追いやられた正統な王家一族なのである。そして、この正統王家に忠実に仕える、「王家鈴木さんち」の隣の家に住む山田さん。果たして、鈴木さんちの御家再興はなるのか?その行く末はいかに・・・。
「とある国」としながらもちぐはぐな和洋折衷の設定、王族と大衆のギャップが面白かったです。
らせん劇場は、今作品で「act.64」だそうです。安倍七騎一作で“産みの苦しみ”を実感した私にとって(“楽しい苦しみ”ではあるのですが――)、64という数字は実に驚異です。
↓ 画像をクリックしてください。
これだもん・・・。
追 記
らせん劇場の団長の都築はじめさんや、劇団員の四季妙雅さんとは、れいの伊太利亭で知り合った方々です。
昨日、私は伊太利亭に行きました。
安倍七騎をはじめとした安倍奥の伝説を安倍奥の地域振興に役立てることはできないかということで、 「すろーらいふ」編集者の原田さやかさんと、静岡市役所の今川俊一さんとで話し合うためでした。
静岡市葵区坂本のことのように(ブログvol.41の、「その後の坂本姫の顔洗い場」参照)、また安倍七騎が地域振興のお役にたてる機会がやってくるかもしれません。
よーし、頑張るぞ!!
2008年06月23日
キャンドルナイトの夜(vol.51)
ちょっと、タイトルに「キュリー夫人の夫」的な違和感を覚えますが、それはともかく、毎年夏至と冬至の日は、キャンドルナイトの夜です。
6月21日夏至――。
ハンバーグとパスタのお店「伊太利亭」(静岡市葵区紺屋町)では、午後6時30分から9時ごろまで店内の照明をおとし、キャンドルに灯をともしました。そうすることで節電に心掛け、CO2削減につなげようというものです。
蛍光灯の白い灯りよりも、キャンドルは温かみがあり、視覚からもお料理が一層美味しく感じられるものです。
また、映し出される人々の顔も柔和で美しく見えるものです。
ふと、
清水へ 祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人 みな美しき
という与謝野晶子さんの歌を思い出しました。この歌の情景(―― 提灯に映し出された人々の顔 ――)も、こんなところではなかったでしょうか。
さて、伊太利亭で毎月第三金曜日に行われる「金曜プラスの会」(食の安全や農業に関心のある方、自由参加。 是非!! 夜8時から)も、これからは“キャンドルナイト”で行われることになりました。
各家庭でも、「毎週○曜日と○曜日は、キャンドルナイト」とするのもいいかもしれません。
何せ、地球温暖化は待ってくれませんから。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいね。

さまざまなキャンドル。みんなきれいですね。

これはかわいい。温泉につかっているようですね。

竹を利用した手づくりキャンドル。焙煎堂(HPにあるリンク集参照)の川口さんの作品です。

水に浮くものやカンテラ型のものもありました。

お店の前を通る人は「おやっ」と思ったことでしょう。
けど、この「おやっ……、何やってるの?」が大事なんですよね。

ホントですなぁ……。
6月21日夏至――。
ハンバーグとパスタのお店「伊太利亭」(静岡市葵区紺屋町)では、午後6時30分から9時ごろまで店内の照明をおとし、キャンドルに灯をともしました。そうすることで節電に心掛け、CO2削減につなげようというものです。
蛍光灯の白い灯りよりも、キャンドルは温かみがあり、視覚からもお料理が一層美味しく感じられるものです。
また、映し出される人々の顔も柔和で美しく見えるものです。
ふと、
清水へ 祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人 みな美しき
という与謝野晶子さんの歌を思い出しました。この歌の情景(―― 提灯に映し出された人々の顔 ――)も、こんなところではなかったでしょうか。
さて、伊太利亭で毎月第三金曜日に行われる「金曜プラスの会」(食の安全や農業に関心のある方、自由参加。 是非!! 夜8時から)も、これからは“キャンドルナイト”で行われることになりました。
各家庭でも、「毎週○曜日と○曜日は、キャンドルナイト」とするのもいいかもしれません。
何せ、地球温暖化は待ってくれませんから。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいね。
さまざまなキャンドル。みんなきれいですね。
これはかわいい。温泉につかっているようですね。
竹を利用した手づくりキャンドル。焙煎堂(HPにあるリンク集参照)の川口さんの作品です。
水に浮くものやカンテラ型のものもありました。
お店の前を通る人は「おやっ」と思ったことでしょう。
けど、この「おやっ……、何やってるの?」が大事なんですよね。
ホントですなぁ……。
2008年06月14日
静岡歴史民俗研究会の講演会のこと(vol.49)
6月7日(土)は、前回のブログで触れたとおり「みなとの楽校」へ行きましたが、この日の午後に、静岡歴史民俗研究会(会長 望月茂氏)の講演会が、静岡市葵区のアイセル21であり、「みなとの楽校」のあとこちらへと駆けつけました。
この静岡歴史民俗研究会は、私が講演演壇に立つにあたり、はじめて機会を設けてくださった会であり、思い出浅からぬ会であります。
さて、6月7日の講演会は、文化人類学研究者である嶋田進先生(望月会長のご兄弟)のお話で、「コトバから白鬚・サルタヒコを解く」と題したもので、わが国における民族的信仰のルーツは、韓国にあるといった話でした。
それは、韓国語の読みから転じて「白鬚」「猿田彦」について考えると言ったものでしたが、安倍・藁科川筋に白鬚神社が多いということもあり、先生のお話は大変興味深く拝聴いたしました。
お話の内容については差し控えますが、改めて言葉(その読み、あるいは、漢字のなりたち)の妙さを実感させるものでした。
拙著『安倍七騎』でも地名の謂われについても触れましたが、これは、拙著のそれにも通じるものでした。
↓ 画像をクリックしてください。

演壇に立つ嶋田先生

さまざまな質問や意見も出され、熱心さが伝わってきました。
この静岡歴史民俗研究会は、私が講演演壇に立つにあたり、はじめて機会を設けてくださった会であり、思い出浅からぬ会であります。
さて、6月7日の講演会は、文化人類学研究者である嶋田進先生(望月会長のご兄弟)のお話で、「コトバから白鬚・サルタヒコを解く」と題したもので、わが国における民族的信仰のルーツは、韓国にあるといった話でした。
それは、韓国語の読みから転じて「白鬚」「猿田彦」について考えると言ったものでしたが、安倍・藁科川筋に白鬚神社が多いということもあり、先生のお話は大変興味深く拝聴いたしました。
お話の内容については差し控えますが、改めて言葉(その読み、あるいは、漢字のなりたち)の妙さを実感させるものでした。
拙著『安倍七騎』でも地名の謂われについても触れましたが、これは、拙著のそれにも通じるものでした。
↓ 画像をクリックしてください。
演壇に立つ嶋田先生
さまざまな質問や意見も出され、熱心さが伝わってきました。
2008年06月09日
初の青空講演会 「みなとの楽校」(vol.48)
6月7日(土)、静岡県庁港湾局、芦川港湾整備室長様のお招きで、三保松原海岸へ行ってきました。これは、国、県、市などの港湾行政に携わる方々の親睦を図るイベントで、地引網、バーベキュー、浜清掃を行うといったものでしたが、私の講演会もそのイベントのうちのひとつに入れていただきました。題して「みなとの楽校ミニ講演会 戦国時代の清水湊」 。
三保松原海岸は、伊豆半島が良く見えるところです。そこで、今回の講演はどのようにしようか? ということでつらつらと考えたわけですが、せっかくの屋外講演会なので、話の途中で指を差し、「あそこが、○○のあったところです」などとやれたらなぁ……、と思い、戦国時代の清水湊の様子のほか、対北条の水軍基地「清水湊」と対比さるかたちで、西伊豆にあった北条水軍の基地についてもなるべく触れるようにしました。
しかし、この日は晴れたものの、あいにく湿度が高くて講演で触れた土肥や西伊豆田子、雲見などは、三保松原海岸からは見ることができませんでした。
それでも、角(かど)港湾局長様をはじめ、ご来場の皆様には熱心に私の話を聴いただき、また質問も出していただき、とても嬉しく思いました。
今回は、初の屋外での講演会ということで、屋外ではパワーポイントは使えないけれども、講演の内容や場所によっては、受講者方々の目で直に“現場”を見てもらうというやり方もあるという発見がありました。角港湾局長様、芦川港湾整備室長様はじめ、皆様に感謝いたします。
誠にありがとうございました。 拝
↓ 見たい画像をクリックしてください。

「みなとの楽校ミニ講演会」は、羽衣の松のすぐ近くで行われました。「駿府静岡歴史楽会」もそうですが、“みなとの楽校”とは、とてもいいネーミングですね。

天女でなくとも、ヒョイと上着をかけたくなるような枝ぶりです。

ときに伊豆の北条水軍は、三保海岸に上陸し駿河に攻入ったといわれます。上陸後、松林に身を隠しながら、標的に向かって忍び寄る北条水軍の動きが目に浮かびます。
三保松原海岸は、伊豆半島が良く見えるところです。そこで、今回の講演はどのようにしようか? ということでつらつらと考えたわけですが、せっかくの屋外講演会なので、話の途中で指を差し、「あそこが、○○のあったところです」などとやれたらなぁ……、と思い、戦国時代の清水湊の様子のほか、対北条の水軍基地「清水湊」と対比さるかたちで、西伊豆にあった北条水軍の基地についてもなるべく触れるようにしました。
しかし、この日は晴れたものの、あいにく湿度が高くて講演で触れた土肥や西伊豆田子、雲見などは、三保松原海岸からは見ることができませんでした。
それでも、角(かど)港湾局長様をはじめ、ご来場の皆様には熱心に私の話を聴いただき、また質問も出していただき、とても嬉しく思いました。
今回は、初の屋外での講演会ということで、屋外ではパワーポイントは使えないけれども、講演の内容や場所によっては、受講者方々の目で直に“現場”を見てもらうというやり方もあるという発見がありました。角港湾局長様、芦川港湾整備室長様はじめ、皆様に感謝いたします。
誠にありがとうございました。 拝
↓ 見たい画像をクリックしてください。
「みなとの楽校ミニ講演会」は、羽衣の松のすぐ近くで行われました。「駿府静岡歴史楽会」もそうですが、“みなとの楽校”とは、とてもいいネーミングですね。
天女でなくとも、ヒョイと上着をかけたくなるような枝ぶりです。
ときに伊豆の北条水軍は、三保海岸に上陸し駿河に攻入ったといわれます。上陸後、松林に身を隠しながら、標的に向かって忍び寄る北条水軍の動きが目に浮かびます。
2008年05月19日
♪ 薔薇が咲いた…(vol.43)
晩春から初夏にかけては、いろいろな花が咲きます。藤にはじまりアマリリスにシャガ、そして、薔薇の花も満開です。
静岡県は、全国における薔薇の生産のうち、10パーセントを占めるそうですが、その主要産地のひとつである島田市には、「ばらの丘公園」があります。
5月17日(土)、天気は快晴――。
この日、「ばらの丘公園」でフェスティバルがありました。
フェスティバルでは、島田市立大津小学校の児童が、畳9畳分の紙に、バラのじゅうたんをつくるなどのイベントが行われました。
燦燦と降り注ぐ太陽の下、約300種、9000株ものバラの花が、色とりどりに咲いていました。
そういえば、私が物心ついたころ、レコードプレーヤーの前に正座して歌った歌が、千昌夫さんの『星影のワルツ』と、マイク真木さんの『薔薇が咲いた』でした。
♪ 薔薇が咲いた 薔薇が咲いた 真っ赤な薔薇が……
と、今でもときどき歌います。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!

園内の様子

園内上部から見たところ

密なる花びらの「バリエガーダ・ディ・ボローニア」(イタリア)

オレンジの大輪「近衛」(日本)

灼きつく赤の「ファラオン」(フランス)

陽に向かってすくっと伸びる「パステル・モーブ」(日本)

その名も「花嫁」(日本)
「ばらの丘公園」向かいにある「ばらの館」には、ばらのソフトクリームをはじめとした、ご当地限定ソフトクリームを売っており、この日、長蛇の列ができていました。
この時期、みなさんも是非お出かけください!!
静岡県は、全国における薔薇の生産のうち、10パーセントを占めるそうですが、その主要産地のひとつである島田市には、「ばらの丘公園」があります。
5月17日(土)、天気は快晴――。
この日、「ばらの丘公園」でフェスティバルがありました。
フェスティバルでは、島田市立大津小学校の児童が、畳9畳分の紙に、バラのじゅうたんをつくるなどのイベントが行われました。
燦燦と降り注ぐ太陽の下、約300種、9000株ものバラの花が、色とりどりに咲いていました。
そういえば、私が物心ついたころ、レコードプレーヤーの前に正座して歌った歌が、千昌夫さんの『星影のワルツ』と、マイク真木さんの『薔薇が咲いた』でした。
♪ 薔薇が咲いた 薔薇が咲いた 真っ赤な薔薇が……
と、今でもときどき歌います。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!
園内の様子
園内上部から見たところ
密なる花びらの「バリエガーダ・ディ・ボローニア」(イタリア)
オレンジの大輪「近衛」(日本)
灼きつく赤の「ファラオン」(フランス)
陽に向かってすくっと伸びる「パステル・モーブ」(日本)
その名も「花嫁」(日本)
「ばらの丘公園」向かいにある「ばらの館」には、ばらのソフトクリームをはじめとした、ご当地限定ソフトクリームを売っており、この日、長蛇の列ができていました。
この時期、みなさんも是非お出かけください!!
2008年05月07日
栃沢 「新茶を楽しむ会」へ行ってきました(vol.40)
5月3日(土)、奥藁科の栃沢で、「新茶を楽しむ会」(主催 / 山水園 内野清巳さん)が行われました。
この日、雨が予想されましたが、爽やかな初夏を思わせるほどの好天となりました。
11時からのお茶会席に参加したあと、おにぎりや山菜の入ったお味噌汁、お漬物などをふるまっていただき、お腹までも満たすことができました。
お茶も食事もとってもおいしかったです。あと、新茶茶漬けの席もあったのですが、あいにくタイミングが合わず、こちらは来年のお楽しみ( ―― また来年もやっていただけるのであれば ―― )とします。
さらに、
「食後の腹ごなしは?」というと――、
お茶摘みができたり、また、周辺散策ができるように、裏山の小道に案内板を設けてくれてあったりなどなど、至れり尽くせりのおもてなしでした。
このようなおもてなしに、いつも感謝の気持でいっぱいです。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!

お茶会の模様

栃沢の点景 その1

栃沢の点景 その2

栃沢の点景 その3

栃沢の点景 その4
* * * 追 記 * * *
☆ 今回は、静岡大学の小二田先生ほか皆さんと行ってまいりました。小二田先生のブログ「山・茶・畑~連休終盤。」にも、このお茶会の様子が記されています(当ホームページのリンク集からもアクセスできます)。とっても美しい画像が掲載されています。是非ご覧ください。
☆ 美味しいお茶のご用命、お茶会参加のお問合せは――
《 山 水 園 》
【電話】 054(291)2219番 【ファックス】 054(291)2220番
この日、雨が予想されましたが、爽やかな初夏を思わせるほどの好天となりました。
11時からのお茶会席に参加したあと、おにぎりや山菜の入ったお味噌汁、お漬物などをふるまっていただき、お腹までも満たすことができました。
お茶も食事もとってもおいしかったです。あと、新茶茶漬けの席もあったのですが、あいにくタイミングが合わず、こちらは来年のお楽しみ( ―― また来年もやっていただけるのであれば ―― )とします。
さらに、
「食後の腹ごなしは?」というと――、
お茶摘みができたり、また、周辺散策ができるように、裏山の小道に案内板を設けてくれてあったりなどなど、至れり尽くせりのおもてなしでした。
このようなおもてなしに、いつも感謝の気持でいっぱいです。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!
お茶会の模様
栃沢の点景 その1
栃沢の点景 その2
栃沢の点景 その3
栃沢の点景 その4
* * * 追 記 * * *
☆ 今回は、静岡大学の小二田先生ほか皆さんと行ってまいりました。小二田先生のブログ「山・茶・畑~連休終盤。」にも、このお茶会の様子が記されています(当ホームページのリンク集からもアクセスできます)。とっても美しい画像が掲載されています。是非ご覧ください。
☆ 美味しいお茶のご用命、お茶会参加のお問合せは――
《 山 水 園 》
【電話】 054(291)2219番 【ファックス】 054(291)2220番
2008年05月03日
「つたの細道公園みどり祭り」へ行ってきました(vol.39)
桜がおわり、躑躅(つつじ)やアマリリスなどが咲き誇って、春本番となりました。
この頃は、軽装で里山の散策ができる季節となり、どことなくウキウキとしてまいります。こんな麗らかな時候ですから、各地で楽しいイベントが行われています。
4月27日(日)、岡部町で「つたの細道公園みどりまつり」(主催/横添ふるさと会)が開かれました。
開催場所の「つたの細道公園」は木和田川沿いで、芝生、木橋、石垣の堰堤(兜堤)など景観が整えられ、かつ沢遊びができるなど親水性も高く、村おこし会場としてはなかなかよいところだと思いました。
この日、地元の方々による新茶手揉み体験会や新茶の無料のサービスがあったほか、山賊汁などが振舞われました。山賊汁には、地元で採れた筍をはじめとした野菜、それから、猪肉が入っていました。
余話――。
山賊というと、いわゆる悪党、強盗、野伏(のぶせり)のたぐいを連想しますが、必ずしもそうでないようで、ごく普通の名主や土豪だった場合が多いようです。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の家来となった蜂須賀小六なども山賊のイメージがありますが、この人物もその例にもれなかったようです。
拙著『安倍七騎』にも、安倍七騎の一にかぞえられる末高半左衛門という村岡村名主が登場します(p6~)。4月6日、「“安倍七騎とその風景”探訪ツアー」でもその邸があったスエタカ(葵区平野字トイグチ)を訪れたところですが、私はこの人物を山賊の棟梁として描きました。
スエタカからは、屹立(きつりつ)する真富士山などの山塊が見ることができます。この山塊は、北は山梨県にのび、南は賤機山まで続いています。この南北にのびる尾根筋には道がつき、今はハイキングコースとなっていますが、中世のころは、この道を伝って間者(忍者)などの「分けあり者」が往来したと考えられます。
そういった人物から、「おい、通してやるから駄賃をよこせ。なに、ほんの気持でいいのさ」などと、半左衛門の家来百姓(けらいびゃくしょう)らが金銭を徴収していたと考えられます。
閑話休題――。
つたの細道は、在原業平(ありわらのなりひら)の峠越えで有名ですが、ここを訪れて、彼が作った歌を思い出しました。
唐衣(からころも) 着(き)つつなれにし
つましあれば はるばる来ぬる 旅(たび)をしぞ思ふ
これはちょっとシャレた歌でして、上記の歌の各節のあたまの文字をつなげると「か・き・つ・は・た(かきつばた)」となるわけです。
その歌意は、
―― 着なれた唐衣のように馴れ親しんだ我が妻を都に置いてきたので、この美しい花(かきつばた)を見ると、妻を思い出す。はるばる来た遠い旅路を、しみじみと感じることだ ――
ということで、歌中の「なれにし」とは、 衣に対して 「着なれた」ということを、また、妻に対しては、 「馴れ親しんだ」 をかけ、「つま」は、 「衣の端(褄:つま)」と「妻」をかけたという解釈です。
さて、今年の「つたの細道公園みどりまつり」は終わりましたが、ゴールデンウイークの後半に、「つたの細道公園」へお弁当を持ってお出かけになったらいかがでしょうか。お気に入りの観光スポットになるかもしれません。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!

この日は、お弁当や柏餅なども売っていました。

芝生の上で寛ぐ人々。画面右側に木和田川が流れています。

新緑のなかを流れる木和田川

お茶の葉も輝いていました。
* * * 追 記 * * *
「つたの細道公園」へのルートですが、国道1号線宇津谷峠トンネル西側にある「道の駅」の駐車場から、「つたの細道公園」へ通じる道があります。公園手前には、駐車場もあります。ただし、この公園には飲料水などの自動販売機がありませんので、「道の駅」などで事前に仕入れた方がよいと思います。
この頃は、軽装で里山の散策ができる季節となり、どことなくウキウキとしてまいります。こんな麗らかな時候ですから、各地で楽しいイベントが行われています。
4月27日(日)、岡部町で「つたの細道公園みどりまつり」(主催/横添ふるさと会)が開かれました。
開催場所の「つたの細道公園」は木和田川沿いで、芝生、木橋、石垣の堰堤(兜堤)など景観が整えられ、かつ沢遊びができるなど親水性も高く、村おこし会場としてはなかなかよいところだと思いました。
この日、地元の方々による新茶手揉み体験会や新茶の無料のサービスがあったほか、山賊汁などが振舞われました。山賊汁には、地元で採れた筍をはじめとした野菜、それから、猪肉が入っていました。
余話――。
山賊というと、いわゆる悪党、強盗、野伏(のぶせり)のたぐいを連想しますが、必ずしもそうでないようで、ごく普通の名主や土豪だった場合が多いようです。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の家来となった蜂須賀小六なども山賊のイメージがありますが、この人物もその例にもれなかったようです。
拙著『安倍七騎』にも、安倍七騎の一にかぞえられる末高半左衛門という村岡村名主が登場します(p6~)。4月6日、「“安倍七騎とその風景”探訪ツアー」でもその邸があったスエタカ(葵区平野字トイグチ)を訪れたところですが、私はこの人物を山賊の棟梁として描きました。
スエタカからは、屹立(きつりつ)する真富士山などの山塊が見ることができます。この山塊は、北は山梨県にのび、南は賤機山まで続いています。この南北にのびる尾根筋には道がつき、今はハイキングコースとなっていますが、中世のころは、この道を伝って間者(忍者)などの「分けあり者」が往来したと考えられます。
そういった人物から、「おい、通してやるから駄賃をよこせ。なに、ほんの気持でいいのさ」などと、半左衛門の家来百姓(けらいびゃくしょう)らが金銭を徴収していたと考えられます。
閑話休題――。
つたの細道は、在原業平(ありわらのなりひら)の峠越えで有名ですが、ここを訪れて、彼が作った歌を思い出しました。
唐衣(からころも) 着(き)つつなれにし
つましあれば はるばる来ぬる 旅(たび)をしぞ思ふ
これはちょっとシャレた歌でして、上記の歌の各節のあたまの文字をつなげると「か・き・つ・は・た(かきつばた)」となるわけです。
その歌意は、
―― 着なれた唐衣のように馴れ親しんだ我が妻を都に置いてきたので、この美しい花(かきつばた)を見ると、妻を思い出す。はるばる来た遠い旅路を、しみじみと感じることだ ――
ということで、歌中の「なれにし」とは、 衣に対して 「着なれた」ということを、また、妻に対しては、 「馴れ親しんだ」 をかけ、「つま」は、 「衣の端(褄:つま)」と「妻」をかけたという解釈です。
さて、今年の「つたの細道公園みどりまつり」は終わりましたが、ゴールデンウイークの後半に、「つたの細道公園」へお弁当を持ってお出かけになったらいかがでしょうか。お気に入りの観光スポットになるかもしれません。
↓ 見たい画像をクリックしてくださいネ!
この日は、お弁当や柏餅なども売っていました。
芝生の上で寛ぐ人々。画面右側に木和田川が流れています。
新緑のなかを流れる木和田川
お茶の葉も輝いていました。
* * * 追 記 * * *
「つたの細道公園」へのルートですが、国道1号線宇津谷峠トンネル西側にある「道の駅」の駐車場から、「つたの細道公園」へ通じる道があります。公園手前には、駐車場もあります。ただし、この公園には飲料水などの自動販売機がありませんので、「道の駅」などで事前に仕入れた方がよいと思います。
2008年04月29日
我が焼津の八丁櫓(vol.38)
4月13日(日)、この日は「やいづ港祭り」がありました。
会場は焼津旧港で、私の家から自転車で、10分ほどで行けます。雨も心配されましたが、この日は晴天に恵まれました。
このイベントでは、いくつもの露店が立ち並び、また、歌あり、踊りありで、とても賑やかなものでした。
さらに港内では、「八丁櫓(はっちょうろ)」という手漕ぎ舟の乗船ができ、乗船した子供達にとっては、とても良い思い出となったことでしょう。
この八丁櫓は、櫓が左右両舷に四丁ずつ据えられたいわゆる「小早(こはや)」といわれる動きの早い小舟の一種です。
拙著『安倍七騎』に、武田の軍艦として、「安宅船(あたけぶね)」が登場します(p125)。これは、50丁ほどの櫓で漕ぐ大きな軍船ですが、いざ海戦となれば、これを取巻くようにして、何隻もの八丁櫓が駿河湾を行き来したと考えられます。
やがて、13年間に及ぶ武田の駿河統治の時代が終わり、さらに織豊時代を経て、徳川の世となりますが、この土地に根付いた水軍兵らは漁師となって、動きの早い鰹(かつお)を、みごとな櫓さばきで追いかけます。
時は江戸時代――。治世安寧をはかる世となり、速度の出せる漁船八丁櫓の建造・使用が禁止となります。これにより、「八丁櫓」のことを、「法度櫓(はっとろ)」と呼ばれるようになります。
しかし、焼津では八丁櫓の建造・使用が何らかの理由により許され(田中城周辺に鷹狩りに来た大御所家康公を海上から警備したことが起源だと考えられます)、江戸時代も鰹漁で活躍します。
平成の現在、八丁櫓は漁船として使われることはなくなりましたが、折々のイベントで今もなお焼津で活躍しています。

「やいづ港祭り」での八丁櫓乗船の様子
会場は焼津旧港で、私の家から自転車で、10分ほどで行けます。雨も心配されましたが、この日は晴天に恵まれました。
このイベントでは、いくつもの露店が立ち並び、また、歌あり、踊りありで、とても賑やかなものでした。
さらに港内では、「八丁櫓(はっちょうろ)」という手漕ぎ舟の乗船ができ、乗船した子供達にとっては、とても良い思い出となったことでしょう。
この八丁櫓は、櫓が左右両舷に四丁ずつ据えられたいわゆる「小早(こはや)」といわれる動きの早い小舟の一種です。
拙著『安倍七騎』に、武田の軍艦として、「安宅船(あたけぶね)」が登場します(p125)。これは、50丁ほどの櫓で漕ぐ大きな軍船ですが、いざ海戦となれば、これを取巻くようにして、何隻もの八丁櫓が駿河湾を行き来したと考えられます。
やがて、13年間に及ぶ武田の駿河統治の時代が終わり、さらに織豊時代を経て、徳川の世となりますが、この土地に根付いた水軍兵らは漁師となって、動きの早い鰹(かつお)を、みごとな櫓さばきで追いかけます。
時は江戸時代――。治世安寧をはかる世となり、速度の出せる漁船八丁櫓の建造・使用が禁止となります。これにより、「八丁櫓」のことを、「法度櫓(はっとろ)」と呼ばれるようになります。
しかし、焼津では八丁櫓の建造・使用が何らかの理由により許され(田中城周辺に鷹狩りに来た大御所家康公を海上から警備したことが起源だと考えられます)、江戸時代も鰹漁で活躍します。
平成の現在、八丁櫓は漁船として使われることはなくなりましたが、折々のイベントで今もなお焼津で活躍しています。
「やいづ港祭り」での八丁櫓乗船の様子
2008年04月17日
「“安倍七騎とその風景”探訪ツアー」のこと(vol.35)
4月6日(日)、「“安倍七騎とその風景”探訪ツアー」(駿府静岡歴史楽会主催・影山満会長)が行われました。
これは、静岡市賤機都市山村交流センター「安倍ごころ」(葵区牛妻)にて、「歴史探訪 安倍七騎」と題した私の話のあと、安倍七騎ゆかりの地などをバスで訪ねるといったものでした。
参加者は28名でしたが、これは、小型貸切りバスの定員の数で、これ以上大きいバスだと(定員が大きいバスだと)山道のカーブを曲がるのが難しいということで、やむなく何人かの方はお断りをさせてもらいました。
また、バスのあとを、自家用車で追ってのツアー参加を申し込まれた方もいらっしゃいましたが、昼食をとるお店の定員数の都合上、こちらもやむなくお断りさせてもらいました。大変申し訳ないと思いましたが、それだけ安倍七騎に関心をお寄せくださったということで、嬉しくも思いました。
まず、講演では、安倍七騎について伝わるエピソードや文献の紹介。それから、『安倍七騎』の出版化に向けての調査において私が感じたこと思ったことなどをお話し、「安倍奥の楽しみ方」として、安倍・藁科川筋の伝説が書かれた書籍(例えば、『梶原景時の生涯 ― 安倍川周辺の史話と伝説五十篇 ―』(松尾書店)、『大河内村史 復刻版』(岩本利太郎・大河内青年団)、『藁科物語』(静岡市立藁科図書館)など)の紹介をしました。
その後、蕎麦処「つど野」で、お蕎麦で一杯やったあと、安倍七騎の望月四郎右衛門と杉山小兵衛のふるさとである俵峰へ行き、杉山氏が弓で敵勢を追い返したといわれる「引落シ」の案内、それから、末裔である望月庄太郎さん宅へも伺いました。4月1日でも、ここは氷点下を記録したとのことで、ここでは山桜を期待のですが、時期尚早で見ることができませんでした。また、拙著『安倍七騎』の巻頭カラー写真で掲載した桜の木も、昨年落雷に遭ったとのことで、だいぶ小さくなっていました(今にして思うと、巻頭カラー写真に収めてよかったと思いました)。
俵峰のあとは、「真富士の里」で休憩をとり(安倍川対岸の見月山を望む。名物に「平野まんじゅう」「わさびソフト」がある)、それから、末高半左衛門の邸があったといわれる平野の「スエタカ」と呼ばれる場所へ行きました。ここは、今では一面茶畑になっているところで、安倍川対岸の山々がとてもよく見えました。ただ、ここへ行くのには、多少危険な山道を歩かねばならず、歩行者の手を取らねばならぬなど、ちょっと苦労するところもありました。
「スエタカ」へのプチ登山のあとは、筋肉痛にも効く梅ヶ島温泉「黄金の湯」に浸かりました。前出の杉山小兵衛は、武田氏の金山衆として活躍したとのことで、金山の仕事のあとは、梅ヶ島の湯に浸かったのかもしれません。そういえば、「黄金の湯」の前には、樹齢四百数十年の栂の切株が展示されており、今川や武田、それから、ここに暮らす人々の暮らしを見てきた木として紹介されていました。
講演会とツアーを兼ねた企画というのはこれがはじめてでした。感想としては、参加された方々に怪我がなかったこと、これが一番いいことでした。あと、定員満杯でお申込みを断られた方、バスの補助席で我慢してくださった方には申し訳なく思いました。このことについては、この場を借りてお詫び申し上げます。
そして、皆様、誠にありがとうございました。
これは、静岡市賤機都市山村交流センター「安倍ごころ」(葵区牛妻)にて、「歴史探訪 安倍七騎」と題した私の話のあと、安倍七騎ゆかりの地などをバスで訪ねるといったものでした。
参加者は28名でしたが、これは、小型貸切りバスの定員の数で、これ以上大きいバスだと(定員が大きいバスだと)山道のカーブを曲がるのが難しいということで、やむなく何人かの方はお断りをさせてもらいました。
また、バスのあとを、自家用車で追ってのツアー参加を申し込まれた方もいらっしゃいましたが、昼食をとるお店の定員数の都合上、こちらもやむなくお断りさせてもらいました。大変申し訳ないと思いましたが、それだけ安倍七騎に関心をお寄せくださったということで、嬉しくも思いました。
まず、講演では、安倍七騎について伝わるエピソードや文献の紹介。それから、『安倍七騎』の出版化に向けての調査において私が感じたこと思ったことなどをお話し、「安倍奥の楽しみ方」として、安倍・藁科川筋の伝説が書かれた書籍(例えば、『梶原景時の生涯 ― 安倍川周辺の史話と伝説五十篇 ―』(松尾書店)、『大河内村史 復刻版』(岩本利太郎・大河内青年団)、『藁科物語』(静岡市立藁科図書館)など)の紹介をしました。
その後、蕎麦処「つど野」で、お蕎麦で一杯やったあと、安倍七騎の望月四郎右衛門と杉山小兵衛のふるさとである俵峰へ行き、杉山氏が弓で敵勢を追い返したといわれる「引落シ」の案内、それから、末裔である望月庄太郎さん宅へも伺いました。4月1日でも、ここは氷点下を記録したとのことで、ここでは山桜を期待のですが、時期尚早で見ることができませんでした。また、拙著『安倍七騎』の巻頭カラー写真で掲載した桜の木も、昨年落雷に遭ったとのことで、だいぶ小さくなっていました(今にして思うと、巻頭カラー写真に収めてよかったと思いました)。
俵峰のあとは、「真富士の里」で休憩をとり(安倍川対岸の見月山を望む。名物に「平野まんじゅう」「わさびソフト」がある)、それから、末高半左衛門の邸があったといわれる平野の「スエタカ」と呼ばれる場所へ行きました。ここは、今では一面茶畑になっているところで、安倍川対岸の山々がとてもよく見えました。ただ、ここへ行くのには、多少危険な山道を歩かねばならず、歩行者の手を取らねばならぬなど、ちょっと苦労するところもありました。
「スエタカ」へのプチ登山のあとは、筋肉痛にも効く梅ヶ島温泉「黄金の湯」に浸かりました。前出の杉山小兵衛は、武田氏の金山衆として活躍したとのことで、金山の仕事のあとは、梅ヶ島の湯に浸かったのかもしれません。そういえば、「黄金の湯」の前には、樹齢四百数十年の栂の切株が展示されており、今川や武田、それから、ここに暮らす人々の暮らしを見てきた木として紹介されていました。
講演会とツアーを兼ねた企画というのはこれがはじめてでした。感想としては、参加された方々に怪我がなかったこと、これが一番いいことでした。あと、定員満杯でお申込みを断られた方、バスの補助席で我慢してくださった方には申し訳なく思いました。このことについては、この場を借りてお詫び申し上げます。
そして、皆様、誠にありがとうございました。
2008年03月13日
大御所四百年祭市民参画事業のこと(vol.28)
様々な趣向をこらした大御所家康公駿府城入城四百年祭(通称 大御所四百年祭)も終章間近となりました。
このイベントは、慶長12年(1607)に家康公が駿府城に入城したことにちなんで、平成19年(2007)から静岡市、同実行委員会が主催して行われています。
これは、現在の静岡市内の街づくりの基礎を築きあげた ―― 奔流する安倍川の治水や1609年に行われた町割りなど ―― 家康公の偉業を再確認するよい機会となりました。また、演劇、神輿渡御や当時の食の再現、大御所検定試験など、市民の手造り感をありありと感じ、市民参画としたところに大きな意義があったと思います。これら一連のイベントは、街、市民あげての“「温故知新」の実行”だと思いました。ですから、同時に、静岡市の発展につながるものだと私は思います。
―― 余話ですが、そういった意味でも静岡市に歴史博物館が必要だと思うのですが ――
ただ、恐れ多くも、焼津市民の私に一言いわせてもらえば、“新生静岡市”を念頭においた場合、もう少し清水区も参画できた余地があったのではないのかな――、とも思いました。例えば、三保にあった貝島御殿では、家康公が江戸から白拍子を呼んで能を演じさせたり、舟遊びをしたということがあったので、それにちなんだイベントとか――、また、清水湊に徳川の軍船を浮かべるとか ――。
私の場合、『安倍七騎』を書いた都合上、清水というと、どうしても武田氏支配のころの駿河の都のイメージが強いからこんなことも思ったのかもしれません(私は、この事業について全部は把握していないので、もしこのようなことが行われていたならば、お詫びいたします)。
振り返るのはまだ早い!! まだ四百年祭はまだ終わっていません。
こんな企画があります。
それは、駿府静岡歴史楽会(会長 影山満氏)、静岡新聞社(松井純社長)が、同祭市民参画事業として、徳川十八代宗家徳川恒孝氏の講演会(タイトル「江戸は世界有数の国際都市 ―― そのルーツは駿府? ――」)が行われます。詳細は下記のとおりですが、このほか静岡市出身の講談師田辺駿之介さんの講談(タイトル「大御所 徳川家康」)や、「しずおか検定」一級合格者への記念品授与、それから、紙上書展の表彰などが行われます。
徳川宗家の講演です。だれもが「御目見え以上」になれるまたとない機会となるでしょう。
日時 平成20年3月23日(日)13:00会場、13:30開始
場所 静岡市民文化会館中ホール
参加費 500円(全席自由、小学生無料)
チケット販売所 TUTAYAすみや静岡本店1階プレイガイド(℡054-251-1233)、当日券販売あり
お問合せ 駿府静岡歴史楽会 影山会長まで(054-273-6353)
このイベントは、慶長12年(1607)に家康公が駿府城に入城したことにちなんで、平成19年(2007)から静岡市、同実行委員会が主催して行われています。
これは、現在の静岡市内の街づくりの基礎を築きあげた ―― 奔流する安倍川の治水や1609年に行われた町割りなど ―― 家康公の偉業を再確認するよい機会となりました。また、演劇、神輿渡御や当時の食の再現、大御所検定試験など、市民の手造り感をありありと感じ、市民参画としたところに大きな意義があったと思います。これら一連のイベントは、街、市民あげての“「温故知新」の実行”だと思いました。ですから、同時に、静岡市の発展につながるものだと私は思います。
―― 余話ですが、そういった意味でも静岡市に歴史博物館が必要だと思うのですが ――
ただ、恐れ多くも、焼津市民の私に一言いわせてもらえば、“新生静岡市”を念頭においた場合、もう少し清水区も参画できた余地があったのではないのかな――、とも思いました。例えば、三保にあった貝島御殿では、家康公が江戸から白拍子を呼んで能を演じさせたり、舟遊びをしたということがあったので、それにちなんだイベントとか――、また、清水湊に徳川の軍船を浮かべるとか ――。
私の場合、『安倍七騎』を書いた都合上、清水というと、どうしても武田氏支配のころの駿河の都のイメージが強いからこんなことも思ったのかもしれません(私は、この事業について全部は把握していないので、もしこのようなことが行われていたならば、お詫びいたします)。
振り返るのはまだ早い!! まだ四百年祭はまだ終わっていません。
こんな企画があります。
それは、駿府静岡歴史楽会(会長 影山満氏)、静岡新聞社(松井純社長)が、同祭市民参画事業として、徳川十八代宗家徳川恒孝氏の講演会(タイトル「江戸は世界有数の国際都市 ―― そのルーツは駿府? ――」)が行われます。詳細は下記のとおりですが、このほか静岡市出身の講談師田辺駿之介さんの講談(タイトル「大御所 徳川家康」)や、「しずおか検定」一級合格者への記念品授与、それから、紙上書展の表彰などが行われます。
徳川宗家の講演です。だれもが「御目見え以上」になれるまたとない機会となるでしょう。
記
日時 平成20年3月23日(日)13:00会場、13:30開始
場所 静岡市民文化会館中ホール
参加費 500円(全席自由、小学生無料)
チケット販売所 TUTAYAすみや静岡本店1階プレイガイド(℡054-251-1233)、当日券販売あり
お問合せ 駿府静岡歴史楽会 影山会長まで(054-273-6353)